●上妻世海さん、奥野克巳さんと、上妻さんの『制作へ』をめぐる鼎談。この内容は活字化される予定。
上妻世海という人が今際立っているのは、上妻さんは批評家ではなく、上妻さんの書く文章も批評ではないというところが大きいと思う。しかしそれは、批評と実作という二項対立があって、上妻さんがどちらかというと実作寄りだということではない。批評と実作という問題が偽の問題であり、そのような偽の問題を解消するための実践的態度として「制作へ」という概念があるということだろう。
たとえば一方に、事物(作品)が人間と人間との関係を媒介するという考えがあり、これは人間中心主義的であり、関係性の美学へと通じる。それに対し、人間こそ、事物と事物とが関係するときのであるに過ぎないという考えがある。しかし、このような意味でのオブジェクト主義は、関係性の美学のたんなる裏返し(反転)にしか過ぎない。どちらもたいして変わらない。
そうではなく、その両者を往還すること、「人間-事物(媒介)-人間」という関係=媒介によって人間が変化し、「事物-人間(媒介)-事物」という関係=媒介によって事物が変化する(また「事物-事物(媒介)-事物」という関係=媒介もある)ということが、交差的に、互いを食い合うようにして往還することで、人間も事物も相互に変化していく。このような往還こそが重要であり、それがフィードバックループとかリバースエンジニアリングという名で示される。そのような往還を支える、ヒトとモノ、わたしとあなた、両者のどちらもが主体であり媒介でありえるように役割をその都度交換する(ミメーシス的、二人称的な)第三の地点があり、それが制作空間と呼ばれたり、マトリックスとよばれたりして、そのための論理的根拠としてレンマ的な論理(肯定も否定もどちらもそこから生じてくる絶対否定としての非)が示される。
たとえば、絵画という制度が「見ないことの不可能性」を「見ることの可能性」へと変容(隠蔽)するためのものだとして(見せること、限定、解説、フォーマット化)、「制作」は、それをまた変容させ、「見ないことの不可能性」を開くのでなければならないが、しかしそれは、「再度見せること(拡張、創造としての批評、再フォーマット化)」によって可視化される領域に戻ってくる。この、行って、帰ってくるという往還が、そして、帰ってくると別物になっている、という変容が重要なのだと思う。
(だから、制度化であり、ある意味で紋切り型化でもある、フォーマット化、再フォーマット化も「制作へ」の重要な要素なのだと思う。プロトタイプというのは、より広く未来に開かれたフォーマット化されたモノと言えるだろう。)