●本の見本が届いて、ああ、本当に本になったのだなあと実感する。まだ配本前でフライング気味だけど「はしがき」の部分をここに転載します。以下、『虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察』(古谷利裕)より。

はしがき

現実主義に抗するために、フィクションは意味を持ち得るのか。意味を持つとしたらどのようにしてなのか。一言でいってしまえばそれがこの本の主題です。ここで現実主義とは、現実は変わらない、あるいは変えられないという考え方や空気のことです。状況という意味での現実は刻々と、早すぎるくらいに変わっていくのですが、それはたんなる変化であって変革とは言えないものです。現実主義の蔓延の中で人は、どのように現実をよりよいものに変えていくのかを考えるよりも、今ある現実(刻々と変化する状況・あるいは変わらない構造)のなかで、どのように振る舞えばより多くの利得が自分にもたらされるのか、今ある条件のなかでどのようにサバイブしていくのか、と考えるようになるでしょう。というか、そのようにしか考えることができなくなってしまうのです。現実主義のもとでは、よりよい現実、よりよい世界を目指すという目的や、それについて考えを巡らせ、様々な試みを行うということが失われ、いかに今ある現実に適応するのかという思考だけが残るのだと言えるでしょう。
ポスト・トゥルースという言葉があります。この言葉によって示されるような現状は一見、社会では事実のもつ価値が軽くなり、嘘(虚構)の方が強い力をもってしまっていることが示されているかのように感じてしまうかもしれません。しかしポスト・トゥルースと呼ばれるような事態は、「嘘」を「自分(たち)の利得」のために都合よく使うということを意味しています。つまり、自分たちの目の前にある利益、自分たちの都合という「現実的な利得」のために、言い換えれば自分たちがこの社会(現実)のなかでサバイブしたり成功したり、都合の悪い事や罪を逃れたりするために「嘘(虚構)」が利用されているということです。嘘が、現実的な利得のためにあたかも嘘でないかのように粉飾されて使用されるという意味で、ポスト・トゥルースと言われる状況こそ、究極の現実主義といえるのではないでしょうか。そうではなく、虚構が虚構であることの力が、現実主義に対して作用することができるとしたら、それはどのようにしてなのでしょうか。それがこの本の問いです。
この本のもう一つの大きな主題が技術です。技術進歩こそが、わたしたちの生きる現実の地盤を刻々と変化させているものだと言えるでしょう。一面では、技術こそが世界をよりよく変える希望であるように見え、他方では、現実の変わらなさ(豊かな者はより豊かに、貧しい者はより貧しく)が技術によってより一層強化され、固定されてしまうようにも見えます。現実主義と技術とはどのような関係にあるのか、そして、現実主義に抗するものとしてのフィクションと、技術との関係はどうなっているのか。この本では、そのような点についても考えていきたいと思います。
以上のようなことを考えるために、ここでは主にSFアニメを取り上げ、検討していきます。それは、SFアニメこそが、これらの問いについて考える題材として適していると思うからですが、同時に、著者がそれをとても好んでいるからでもあります。だからこの本は、現実主義に抗するためにフィクションは意味を持ち得るのかという問いを検討する本であるだけでなく、単純に、著者の「推しアニメ」を紹介し、お勧めする本だという側面もあります。
この本は、たとえていえば連作短編によって構成された長編小説のような形になっています。特定のアニメを論じているひとまとまりはある程度の自律性がありますが、それらが互いに絡み合うことで、一冊の本としての全体が形作られるように構成されています。基本的には、前から順を追って読まれることが想定されていますが、入り口は必ずしも一つではないはずです。興味をひかれた部分から読み始めたり、様々な部分にジャンプするような読み方も可能でしょう。
フィクションについて考えることは、夢をみることに、あるいは夢について考えることに似ています。そして、現実主義者は、そのようなことには意味がないし下らない、あるいは、無責任で害悪でさえあると言うでしょう。それに対しわたしたちは、そのような現実主義の態度こそがわたしたちの現実を堅く貧しくしているのだと反論することはできるのでしょうか。