2019-02-14

●『最愛の子ども』(松浦理英子)を読んだ。

作家はそれぞれが固有の「茨の道」をもっており、あるいはそれに拘束されており、作家は自らの作品において、その「茨の道」を孤独にすすんでいくものなのだなあと感じた。

そして、その「茨の道」にきちんと行き会えるかどうか、その道に沿って歩くことができるかどうかというのは、それぞれの読者の資質や才能の問題ということになるだろう。

そういう意味でぼくは、この作家のちゃんとした読者である資質を欠いているように思われる。これが固有の「茨の道」であろうという感触を得ることはできるが(その意味では十分に面白いと感じることはできるが)、その道に沿って歩きながら、その固有の風景の機微を十分に感じ取れているとは思えない。

(この小説が描き出す官能的感触に、十分に感受し共振できているとは思えない。)

たとえばぼくは、この小説を一瞬だけ横切って消えてしまう(この小説の他の部分とはあまり関わりがないようにみえる)、修学旅行を一人で過ごす誰だかも特定されない男子生徒のイメージをキーとしてこの小説の形式を分析してみたら面白いのではないかと思ってしまうのだが、でも、それはぼく自身の欲望であって、この小説(この作家)が進もうとしている「茨の道」に沿って歩くこととは違ってしまうだろう。

(読者が、作家の固有の「茨の道」と行き当たるためには、速すぎても遅すぎてもいけないし、粗すぎても細かすぎてもいけない。)

●「わたし」の視点から語られる話だからといって、必ずしも「わたし」についての語りだとはかぎらない。「わたし」という視点を通じて、「わたし」がすでに「わたしたち(複数のわたし)」として分裂してしかあり得ないというような形であらわれていることを示す、というような語りもある。逆に、「わたしたち」を通して語られる「わたし」のありようもある。それがこの小説なのではないか。ここで問題になっているのはあくまで、固有の「茨の道」としての「わたし」の姿であるように思われる。

この小説には、二つの組成のことなる「わたしたち」があるように思う。一つは、「わたしたち」としてしか語りえない、わたし以前の「わたし」の萌芽的状態であり、もう一つは、対象というよりは関係そのものを欲望する、そのような欲望の対象=関係としての「わたしたち」である。しかし後者においても、ある関係のなかにいながらも、自分がその一部である「関係」そのものを欲望するものとしてたちあがってくる一つの主体、(固有の「茨の道」としての)「わたし」(真汐)の姿が浮かびあがっており、そのような「わたし」のありようこそが、この小説では問題になっているように思われる。

この小説は、「わたしたち」のなかから「わたし」が生まれ出てくるという話であり、同時に、その「わたし」は、対象というより関係を欲望する(あるいは、関係を対象化する)ことによって主体化した「わたし」であるという話でもあると思う。そうであるような「わたし」のうちには、「わたしたち」が内包されている(つまり、わたしたち>わたし、であり、同時に、わたしたち<わたし、でもあるというように、「わたしたち」と「わたと」とは相互包摂的な関係にある)。だからこそ、そのような「わたし」は、「わたしたち」を通して語られる必要がある。「わたしたち」が語っているのは、そのような形でしか語り得ないものとしての一つの「わたし」であり、そのような形をした固有の「茨の道」のありようであるように思われる。

未分化な異なる資質たちによって構成される曖昧な塊としての「わたしたち」のなかに、ある個別的な関係が「図」として生まれ(つまり、曖昧な塊があって、そのなかからやや分離された、語られる対象としての対象=関係が生じ)、その関係の(繰り返し語られることによる)進展のなかから、ひとつの固有の「わたし」という「茨の道」が出現する。しかしこれはたんに、曖昧な塊→個別の関係→固有の「わたし」、という継起的な進展の過程というよりも、「わたしたち」のなかから「わたし」が分離するという過程であると同時に、「わたしたち」はすでに「わたし」たちであって、「わたし」であるものから遡行的に導かれた「わたしたち」の塊だということでもある。

そのような意味では、「わたしたち」によって語られる「わたし」の話であるだけでなく、「わたし」の解析を通じて遡行的に組み立てられる「わたしたち」の話であるのかもしれない。このように、相反する反転的な要素が一致している点が、この小説の形式的達成だとも考えられる。だとすればこの小説は、一つの固有の「茨の道」を示すと同時に他方で、、一般性をもつ架空のおとぎ話としてもあると言えるかもしれない。