2019-02-19

●『社会的なものを組み直す』(ブリュノ・ラトゥール)で、アクターネットワーク理論が「科学は社会的に構築されている」と言う時、それはいわゆる「社会構築主義」とはまったく意味が違う(真逆ですらある)---「構築」という語の意味も「社会」という語の意味も違っている---と力説している部分で、註にドゥルーズの『襞』が引用されて、《例によって、何でもありという相対主義と相対性とを混同することの代償は大きい。ドゥルーズが言ったように、「相対主義が説くのは、真理が相対的であることではなく、関係が真理であることだ」》と書いてあって、おおっ、それな、と思った。

《(…)何かが「構築された」ということは、それが真実ではないことを意味していたのである。そして、そうした研究者たちは、次のような常識外れの選択をせよという奇妙な考え方をしているようであった。つまり、実在しており構築されていないか、構築された人工的なものであり、仕組まれ発明されたものであり、作り上げられた偽物であるか、のどちらかを選択しなければならないという考えだ。》

《(…それは)私たちが実験室で目撃したあらゆることにも反していた。仕組まれたものであることと客観的であることとは、切り離せないのではないか。(…)事実は事実である---つまり、正確な事実である---のは、その事実が作り上げられたからである---つまり、事実は人工的な状況から立ち現れたということだ。私たちが研究した科学者たちは、一人残らず、構築の質とデータの質との結びつきを誇りにしていた。実のところ、その結びつきの強さが、科学者であることの主たる証であった。》

《(…)「構築主義」を「社会構築主義」と混同してはならない。私たちが「ある事実が構築される」と言うときには、さまざまな事物を動員することで、堅固で客観的な実在性が報告されることを示しているにすぎない。そして、そうした事物の組み合わせはいつもうまくいくわけではない。他方で、「社会構築主義」は、この実在性を構成しているものを何らかの他の素材、つまり、社会的なものに置き換えることを意味している。実在性は「実のところ」社会的な素材で築かれるというわけだ。》

《私たちにとって、構築主義実在論の増進と同義であるにもかかわらず、社会的批判を専門とする私たちの同僚からは、ついに「科学さえでたらめである」ことを示したとして讃えられていたのだ!》