●お知らせ。3月25日に、京都で、「虚構世界はなぜ必要か?」刊行記念のトークイベントをやります。ゲストは西川アサキさんです。
https://twitter.com/100000t_A/status/1102078968713293825
場所は「Bonjour! 現代文明」です。
●アニメ『ペンギン・ハイウェイ』をDVDで観た。なんというか、メーテル的な、「私はあなたの少年の日の心の中にいた青春の幻影」的な。いまどき、照れもなくひねりもなく、どストレートに、これを、ここまで堂々とやりきってしまうのはすごいな、と。観ている方が恥ずかしくなってしまう感じを突っ切っていくほどの照れのなさというか。最初の方はいろいろ鼻につく感じもあったのだけど---再生を中断しようかと何度か思ったのだけど---中途半端に屈折をみせることもなく、あまりに堂々と正面突破しにきているので---アニメとしてのクオリティの高さもあって---結局は押し切られてしまった。これを手放しで「すばらしい」と言うのには躊躇があり、敗北感のようなものもあるのだが。
とはいえ、この作品に「押し切られた」のは、堂々とした紋切り型に押し切られたというよりも、アニメとしてのクオリティの高さに押し切られたという感じだと思う。だが、たとえクオリティが高いとしても、この「照れのないストレートさ」がなければ、「このお話」を最後まで観られなかったかもしれない。
(こういう保留---いいわけ---を書くのは、「観ている側」の照れの問題かもしれない。ペンギンかわいいし、「お姉さん」には憧れるよね、と素直に言っていればいいのかもしれない。こんなことを書かずにいられない時点で「負け」ているのかもしれない。)
(妹が、「お母さんが死んじゃう」と言ってくるシーンは、とてもよいシーンだった。)
(主人公が、最初に軽く嫌な感じの印象で登場して、そのうちだんだん馴染んで気にならなくなって、最後にはしっかり感情移入させられている、という展開にもっていくのは、「成長」を描く物語のキャラクター造形の典型的な形なのかも。対して、初期宮崎駿のキャラクターは---レナとコナンにしろ、シータとバズーにしろ---観客に最初から無条件に好意を抱かせるようにつくられていて、はじめから完璧にいい奴だからいきなり直に作品世界に入り込めるが、故に、彼女や彼らは「成長」はしない。この割り切りは実は当時としては新しかったのかも。)