2019-04-12

幾原邦彦の新作『さらざんまい』がはじまった。

第一回目をみたかぎりでは、肛門、直腸、排泄物といったスカトロジー的なイメージのあからさますぎる多用(幾原作品で、このような身体の内側の感覚---内蔵的感覚---が強調されることは希なのではないか)と、排泄すること=出産のようなイメージの重ね合わせ(呑み込まれたものが変形されて肛門から出産される、というイメージ)などから、『フリクリ』が強く想起された。

アニメにおいて、スカトロ的なイメージが、幼児的なアナーキズムと結びつけられる(クレヨンしんちゃん』とか)のではなく、思春期的な感情と結びつけられる---思春期的情動の下で、その基底として無意識的に働いている力としてスカトロ的な感覚を強調する---ということを意識的にやっている例を、ぼくは他には『フリクリ』くらいしか思いつかない。

(ピングドラム」において、荻野目苹果が、スカトロ的でアブジェクション的であることを体現する人物として出てきてはいるが、彼女はどちらかというと汚物を浴びせられる存在であり、そこでは直接的に肛門的、直腸的な感覚は強調されていなかった。)

(肛門的、直腸的感覚の強調と、排泄=出産(転生)というようなイメージの重ね合わせは、この作品の主人公が女装する男性であることと関係があるのかもしれない。これまでの幾原作品は、基本的に女性の物語だったと思う---ピングドラム」も苹果と陽毬の物語と言える---のだが、この作品では男性が中心にくるのかもしれない。)