2019-04-13

巣鴨に保坂さんの話を聞きに行った(小説的思考塾3)

●大雑把に「わたし」を構成する三つの層があると考えることが出来る。一つは、「自分がある」という感覚で、これは「わたし」が特定の時空間に定位していること(今・ここが成立していること)であり、方向性をもつ視点 (一人称的視点) があるということだ。この「ある」は特定の位置や視点としての「ある」であり、必ずしも身体を必要としない。夢の中のような「視点だけのわたし」もあり得る。

しかし、「わたし」は通常、わたしの身体とともに存在する。ほかならぬ「この身体」こそが「わたし」のものであるという感覚がある。わたしの位置や視点は、通常はこの「わたしの身体」に結びつけられている。さらに、その「わたしの身体」を「操作している」のは「わたし」であるという、主体感がある。

わたしは、(1)視点と位置をもち、(2)身体をもち、その(3)身体を操作する主体性をもつ。ここで勿論、所有感と主体感とは別のものだ。わたしが所有する身体だからといって、わたしが自由に操作できるとは限らない。逆に言えば、主体感は身体からきりはなすこともできる。例えば、一般的に道具の使用がこれにあたる。銃の名手が的に弾を当てる時、名手は弾の行方を主体的に操作しているという感覚をもつだろう。

だがこの、(1)自己感、(2)身体所有感、(3)主体感だけで「わたし」が構成されるわけではない。これらはあくまで「図」としてあらわれる「わたし」であり、その背景には「図」を浮かびあがらせるために「地」としてある「わたし」を考えなければならないだろう。

(身体所有感は、ある程度は主体感の地であるだろうし、所有感と主体感が、自己感の地であるということも考えられる。とはいえ、特別に痛みや不調がない限り、普段わたしたちは体内の臓器にわざわざ「所有している」という感覚をもたない。つまり所有感そのものが既に図である。さらに、主体感は所有感と切り離し得るし、自己感もまた身体と切り離し得るので、自己感、主体感、所有感が階層構造になっているというわけではないだろう。)

自己感、主体感、所有感としてあらわれない、そのあらわれを支えている、図の背後にあって作用している「地」としてのわたしを、とりあえず「身体」と呼んでみることもできる。つまり身体とは、「わたし」の背面にあるものだと言える。勿論、ここで身体とは、外から、客観的に限定できる(わたし以外の空間的ひろがりやわたしを構成する以外の物質からはっきりした境界によって切り離される)、通常の意味での「わたしの身体」とは違う。それが地である限り。それがどこまで広がっていて、何とどのように繋がっているのか、完全に知ることはできない。つまりわたしの背面は、わたしの一部であるが、わたしにとって常に不可知の深みであり、外部を含み、その範囲を限定することすらできない。

そして、わたしの前面()と背面()とは反転する。わたしは、わたしの背面から他者のようにやってくるわたしを避けることができない。いや、通常は避けているが、そのうちに受け入れざるを得なくなる。

というか、そもそも反転などしなくても、前面としてのわたしと背面としてのわたしとは一体であるから、背面から回り込んできている他者のようなわたしと前面のわたしは同居している。前面の「わたし」は背面からやってくるものを普段はみないようにしているが、ふと出会ってしまったりする。

このような、表と裏とをあわせて、一つの「呪い」としての「わたし」が成立していると思われる。前面としての「わたし」が緩くなっていくことで、背面としてのわたしもまた緩くなり、徐々にほどけていくと考えてもいいのだろうか。