2019-04-19

●『さらざんまい』の第二話をU-NEXTで。登場人物たちの抱える事情が少しずつ明らかになってきた。

ユリ熊嵐』において欲望は、パースペクティブ主義的な、捕食-被捕食の関係を軸に捉えられていた。それは、欲望の対象を食べてしまう(取り込もうとする)ことに関係し、口から胃へ(外から内へ)という流れをもっていた。だが、『さらざんまい』では、欲望は、直腸のあたりに「秘められたもの」として隠されていて、それが肛門から引き抜かれる(排泄させられる)ことで昇華される(あるいは、搾取される)という形になっていて、内から外へという流れをもっている。

「外から内へ」、「口から胃へ」という流れの反転として、「内から外へ」「腸から肛門へ」という流れのなかで、欲望は、がつがつと求められるものというより、秘められたもとして捉えられ、排泄や漏洩と結びつき、それをもつこと(それが外に漏れること)への恥の感覚と結びつけられる。しかしその排泄≑漏洩は、恥の感覚であると同時に、一種の脱力感として、がちがちに固められた主体(それは保持され、隠された秘密を守る外殻のようなものとしてある)を解除する脱-主体的な感覚(快楽)としても捉えられる。

排泄≑秘密の漏洩によって、主体は形を失って崩壊し、文字通り「昇天」する。

(カパゾンビたちの、前面のガードの堅さに対する、背面にかんする---つまり「肛門」の---あまりのガードの甘さ。背面はノーガードであり、いとも簡単におかまを掘られ、尻小玉を抜かれる。背面という、主体のガードの盲点からの、膝かっくんのような攻撃に虚を突かれる、主体の無力さと、膝かっくんのもたらす快楽。)

「食べる」という欲望の能動性に対する、「排泄する」という受動性による、恥と快楽。あるいは「食べられる」という受苦性に対する、「肛門から排出させられる(抜き取られる)」という脱力性。壁が越えられるというよりも、秘密は知らぬ間にダダ漏れしていて、共有されている。このような感覚が、登場人物たちのもつ、複雑な関係や事情と、今後どのように絡んでくるのだろうか。