●『さらざんまい』では、「かっぱ」に対する「かわうそ」の位置づけが、一話と二話だけではまだよく分からない。「かわうそ」の側が何かを企んでいて、「かっぱ」の側がそれに対して抵抗しようといているらしいという大雑把な構図くらいしか分からない。
(「かっぱ」が、肛門、直腸的であるのに対し、「かわうそ」は、あくまで心=心臓が問題であるようだ。)
●一話における「Amazonの箱」、二話における「猫」と、この作品における欲望を発動させる「呪いが宿るメディウム(モノ)」は、吾妻サラによる「ラッキー自撮り占い」によって予言されている。占いは、予測というより予言であり、予言こそが出来事を決定しているかのようにもみえる。そして、占いが選ぶアイテム(=呪いのメディウム)は、ルーレットによってランダムに決定されている。
●「ウテナ」や「ピングドラム」では、同じような物語のバリエーションが、繰り返し、反復的に語り直される。物語は呪いであり、呪いは、物語が何度も執拗に語り直されることを通じて、少しずつ解除されていく。物語には呪いが宿っており、この「私」はそのような物語によって形作られている。呪いとしての物語を、物語の反復によって中和していく。だから、「ウテナ」や「ピングドラム」における自己犠牲とは、「私」における(「私」という)呪いの解除を意味としているだろう。
(「私」における呪いの解除は、私を形作っている呪いの解除でもあり、それはつまり、「私」というものの消失を意味するのではないか。しかしここで、呪いとしての「私」が消失したとしても、そこに何か残るものがあり得て、ここで残るものこそが「非人称的な愛」なのではないか、というのが、乱暴に要約した場合の「ウテナ」や「ピングドラム」の結論であるように思われる。)
●ここで「呪い」の発生源として、一つにはトラウマがあり、もう一つには関係性(関係の絶対性)がある。「ウテナ」における王子様との出会いがトラウマとしての呪いであるとすれば、「ピングドラム」の高倉家の子供たちが置かれた立場は関係性としての呪いであり、また、「ユリ熊」の紅羽(ヒト)と銀子(クマ)との関係性の構造もまた、それ自体が呪いだと言える。
「ピングドラム」から「ユリ熊」への飛躍は、「ユリ熊」においてはもはや、物語による物語の中和によってでは解消されないような、構造的な「呪い」が問題となっているところにあると思われる。パースペクティブ主義的な構造的呪いは、構造的にしか解かれることができない。
(呪いが解かれた後にも「私」はあり得るのか。つまり、トラウマにも関係性にも還元されない「わたし」はあり得るのか。あり得るとして、それはどういう形をしているのか。)
●で、『さらざんまい』はどうなっていくのだろうか。