2019-06-12

吉本隆明の「虚喩」という考え方がすごく面白い。講演「喩としての聖書――マルコ伝」より。

https://www.1101.com/yoshimoto_voice/speech/text-a041.html

●まずここで、聖書における「奇跡」というのは、理解の出来ない暗喩のことなのだと言っている。

《奇跡っていうのはなにかって言ったら、メタファーなんですよ。メタファーなんです。ところで、一般的なメタファーならば、普通のメタファーならば、例えばあの人の目はゾウだとか、まるでゾウだとかって言えば、誰にでも、一応はどんな人にでも、ああそれは、ゾウのように細くて柔和だっていうことを言おうとしてるんだなって、誰にでもわかるでしょ。ところが、奇跡っていうのはわからないわけですよ。つまり、我々、合理的に言い換えしても、聖書の中で奇跡のところを読んでも、つまり、海が荒れてるのを静かになれ、って言ったって静まるわけないじゃないかっていうふうに、誰でも思うわけですよ。》

《ところが、奇跡っていうのは、本来ならば、隔たっていて、あまりに隔たっていて、あるいは、あまりに相反していて、けっしてどんなふうな結び付け方を言葉として結び付けようとしても結びつけられない言葉を、言葉を結び付けているのが奇跡なんです。言葉としてみた奇跡なんです。つまり、言葉から見た奇跡とは何なのかって言った場合、それは本来ならば、結び付くはずない2つの対象を結び付けているっていうのが、奇跡なんですよ。》

()本来ならば喩として成り立たない、つまり、直喩にもならない。直喩としても意味が通じない。それから、暗喩として考えても意味が通じない。つまり、荒れ狂った海に対して、鎮まれって言ったら、海は静まったっていうふうに言われたって、本来的にそんなの嘘でしょ。嘘でしょっていうのはつまり、絶対信じることはできないでしょ。信ずることをできないことをするから、奇跡なわけですよ。》

《言葉に対する全き信仰とは、いわば聖書の言い方ですれば、それは神に対する全き信仰ってことでしょっていうこともあるんでしょうけども。言葉に対する全き信仰っていうのがあるならば、信仰っていうのがこの両者を、この2つを、まったくつながりそうもない2つの対象を媒介するならば、聖書のマルコ伝の言葉で言えば、黙せ、鎮まれって、イエスがそう言ったと、黙せ、鎮まれっていう言葉が、もし言葉に対する全き信仰として、信仰のもとに、黙せ、鎮まれっていう言葉が、この両者を媒介するならば、つまり、まったく結びつきそうもない2つの対象を媒介するならば、これはメタファーになりうる。》

●ここでは、「喩(比喩)」で(つまり、おそらく「言語」で)、時間的に一番最初にあったものが「虚喩」だと言われる。そして次に「暗喩」があらわれ、次に「直喩」で、「ストレートな言い方(散文)」は、時間的に一番後になってようやく出てきたものだ、と。つまり、「ストレートな言い方」が発生する前は、あらゆることがらは「喩」によって表現するしかなかった。

《つまり、私たちがメタファーと考えているものっていうのは、現在、メタファーだと考えているものは、その時代の人に、メタファーが発生して、使われて、流布された初めの時代の人にとっては、それがメタファーじゃなくて、当たり前な言い方だったっていうことなんです。今、われわれはストレートにおまえの目は細いっていうのを言うことと同じことを言うのに、メタファーが発生した時代の人は、おまえの目はゾウのようだとか、ゾウの目だっていうふうな言い方をしたんです。したっていうそういう意味なんです。だから、それが時間性っていうことなんです。だから、ストレートな言い方っていうのは、時間としては一番あとに出てきたんです。だけど、そんな馬鹿なことないでしょ。喩とかの方が言葉の飾りじゃないですかっていうのは、それはちょっと固定した考え方なんで、そうじゃなくて、それ以外には言えなかったんですよ。人間っていうのは、言葉を、言い方を知らなかった。言えなかったんですよ。だから、ある非常に重要なことを言おうとする場合、例えみたいな言い方しかできなかった時代っていうのはあるのですよ。それが、それぞれの喩が発生した時代なんです。》

●では「暗喩」以前にあった「虚喩」とはどのようなものなのか。

《ここに扇風機が回っているとするでしょ、ただ扇風機が回っていますっていうふうに、僕が言ったとする。そういうこと、それ以外に何もないんですよ。つまり、扇風機が回っていますっていうふうに言った場合に、ほんとはそれ以外何も言わないんだけども、それで何か言ってるっていうことなんです。それで、なんか言ってる。そんなことはありえないんですけど、ありえないんだけども。つまり、我々の今持ってる言語感覚では、そういうことはありえないんですよ。何の含みもなく、ここに扇風機が回っていますっていう、目の前に回っている扇風機を見て、扇風機が回っていますって言ったら、もうそれ以外に何にもないわけです。確かに回ってるから回ってるって言ってるわけです。ところが、しばしば、僕が言う虚喩なるものが発生した古代においては、古代においてはそういう言い方をして、あるいは、そういう言い方でしか、自分の思っていることを言えなかったっていう時代があったと思うわけです。》

《本当は、俺はこういうふうに思ってるんだよっていうような、そういうことを本当は言うために、ほんとにそれしか言えない。そういう言い方しかできなかったそういう時代って言うのがあったと思います。そういうふうに考えているものが虚喩なんです。》

《つまり、ストレートに、おまえは馬鹿だとか、扇風機が回ってるっていうのと虚喩と同じだっていうふうに思われるかもしれないけども。そうじゃなくて、それは現在の言語感覚で言うからおんなじに見えるんであって、ひとまわりして全部めぐって、歴史を全部めぐって、おんなじだって意味なんです。そういう言い方でしか言えなかった。そういう言い方で心を言う。そういう時が、古代のある時期にあったっていうふうに理解します。》