2019-06-15

●地にはスケールがない、ということについて考える。

逆に、なぜスケールというものがあるのか。それはおそらく、我々が物理というものに拘束されているからだろう。人間の大人の身体が、だいたい一メートルから二メートルくらいの範囲に収まり、二十メートルや五十メートルにならないのは、そのスケールでは、我々の身体を構成している物質が、身体の構造を維持できないからだろう。我々は、自身の身体の構造と、物質のもつ特性と、地球のもつ重力とがちょうど均衡するくらいのスケールで、自身の身体を形作っている。そして、地球がその程度の重力を発生させるくらいの質量をもっているということもまた、この宇宙の物理法則に依っている。

スケールが、物理法則に拘束されることによって決まるとすれば、物理法則に拘束されないものは、スケールが可変的であると言える。たとえば、概念や認識はスケール可変性をもつ。我々は、素粒子について考えることも、この宇宙について考えることも出来る。そして、極小の素粒子について考える時も、極大の宇宙について考える時も、それぞれのスケールにおける認識の情報の密度(情報量)は変わらない。素粒子についても宇宙についても、同じくらい緻密に考えることが出来るし、同じくらい粗く考えることが出来る。

あるいは我々は、一人一人の個としての人間についても、人間たちの集合である社会についても、同じくらい緻密に考えることが出来るし、同じくらい粗く考えることが出来る。小さなコミュニティについても、人類全体についても、同じくらい緻密に考えることが出来るし、同じくらい粗く考えることが出来る。

概念や認識のスケールが可変的であることを示す最も端的な例が、フラクタル図形だろう。たとえば、カントール集合を示す図において、一本の線分を三分割してできる真ん中の三分の一の空白は、そのスケールの如何にかかわらず常に「三分の一の空白」であり、操作を(上の階層にも、下の階層にも)何回繰り替えそうとも、「真ん中に三分の一のブランクがある」という情報は変わらない。

カントール集合(wikipedia)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%AB%E9%9B%86%E5%90%88

(ウィキペディアの図だと、線に太さがあるので、スケールが変わるとプロポーションが変わってしまうようにみえるけど、線に太さはないはずなので、階層のどの位置においても「形(情報)」は変わらないはず。)

概念や認識のスケールが可変的であるのは、ある概念や認識()を成り立たせるための「地」に、そもそもスケールがないからであろう。図(ゲシュタルト)は、常に無限定である地のなかからあらわれる。そのような「図」にスケールを与えるのは、(それ自体が地の無限定さを含んでいる図そのものの性質ではなく)他の図との関係であったり、フレームとの関係であったりするだろう。

(ここでフレームとは、上下の階層との関係のなかにあることによって生じる「この階層という規定」ということになるのだろう。)

ゲシュタルトの無限定さのなかに特定のスケールを生じさせるのは、「わたし」がもつ「この身体」という限定であろう。この身体という限定が、この身体において可能な能動性という形で、認識や行為のためのフレーム(階層)を立ち上げる。だがここで、「わたし」にとって「この身体」という限定は、絶対的なものであると同時に相対的なものでもある。「わたし」は「この身体」に拘束されつつ、しばしば「この身体」という限定からはみ出してしまう。

(この「はみ出し」は、同じ階層の横への移動としても起こるし、上の階層や下の階層に向けても起こる。)

(たとえ、「わたし」が「この身体」という限定に完全に拘束されていたとしても、「この身体」という特定の階層の内部にも、その限定の内部で可能な複数の階層というものが生じるだろう。「個としての私」という限定の内にも様々な水準があり得る。)

だから「わたし」は、特定のスケールに拘束されているのと同時に、特定のスケールという規定を越えて、スケールに対して相対的に働く。それはおそらく、「わたし」というゲシュタルトが、それ自身として無限定である地から浮かび上がったものであるからだろう。

●「わたし」というものが、特定のスケールである「この身体」をもつというのと同様に、美術作品や建築は特定のスケールをもつ。物としてある美術作品や建築において、厳密なスケール感は非常に重要なものだ。この作品はこのスケールでしかあり得ないという、必然的で具体的なスケールを実現している(そう感じさせる)必要がある。しかし、ここで言う厳密なスケール感(スケールの具体性)というのは、逆説的だが、特定のスケール感が支配するこの物理空間のなかで「スケール感を見失わせる」ためにこそ要請されるのではないかと思う。

つまり、この物理的空間のなかで成立する物体が、限定的なスケールの「この身体」に拘束される「わたし」との関係において、スケールの限定性を越える感覚を発生させるためには、厳密にこのスケールである必要がある、というようなスケールが実現されているということ。小さい作品はその小ささの固有性において小ささを超える必要があり、大きい作品はその大きさの固有性において大きさを超える必要がある。

物のスケールの具体性と、「この身体」のスケールの具体性との関係によって、スケールが消える感覚が浮上するということ。それを可能にするのが「地にはスケールがない」という事実なのではないか。