2019-07-03

●アニメ『Another(綾辻行人・原作)Huluで観た。

この物語では大雑把に言えば謎が三段構えになっている。(1)一体、この土地(学校)で何が起こっているのか?。これが謎であるのは外からやってきた転校生である主人公と、彼の視点から物語に参入する観客だけだ(主人公は、あらかじめ内部構造に組み込まれている外部からの視点、であるのだが)(2)ここで起こっている「災厄」をどうやったら止めることができるのか?。これは、全ての登場人物にとって切迫性のある謎である。(3)「災厄」を止める方法は突き止めたが、その時に鍵となる人物は一体誰なのか?。要するに「犯人」は誰なのか?。これについては、それを知ることの出来る能力を持った人物が一人だけ作中に存在する(しかし、その一人がいかにも犯人であるかのように誤解される位置にいるので、安全な探偵ではない)

この三つの謎が、合理的な因果性によって構築されていれば、この物語はミステリということになる。しかしこの物語では、謎とその答えは、いわばオカルト的(呪術的)な蓋然性によって関係づけられ、組み立てられている。つまり、謎とその答えとの間には、相関的な蓋然性の高さはあるが、合理的因果性はまったく考慮されない。この物語は、ミステリ的な合理性による骨組みの形を、オカルト的な相関性による接合を使ってつくりあげた、ハイブリッドな物語ということになる。

たとえて言えば、骨組みは合理的で論理的だが、骨と骨とをつなぐ関節部分には合理がない。だから、あくまで合理的に考えるならば、このような骨組みは成立せず、この骨組みでは立ち上がれずに崩れてしまうはずだ。しかし何故か、我々はこの物語を、ある意味で合理的なものであるかのように受け取る。非常に細かく張り巡らされた謎や伏線が、最後には見事に噛み合って回収され、意外な「犯人」(とはいえこの犯人には犯行の意思はまったくないのだが)に、驚かされつつも納得させられる。物語を最後まで辿り終える時、それ自体として非常に悲惨なものではあるが、一つの事件が確かに解決されたという一定の満足を得ることになる。

考えてみればこれはとても不思議なことだ。合理的に考えても、あるいは、常識的に考えても、この世界における物事と物事との関係、出来事と出来事との関係は、この物語が示すようなものとは違っていることを我々は知っている。勿論、あらゆる物事が必ずしも合理的に説明できるものではないことも、我々は知っている。その不可解さそのものにこそ強くリアリティを感じるということもある。しかしこの物語では、まったく非合理的で不可解な物事の連鎖が、あたかも合理的な整合性のあるひとかたまりの事件のようなものとして納得されるのだ。

この物語にあるのは、非合理的な出来事それ自体のもつ不可解なリアリティでもなく、非現実的で幻想的な出来事のもつ魅惑的な力でもなく、非合理的な出来事の連鎖を、あかたも合理的であるかのように納得させてしまう、ある種の「納得の形式」のもつ強さ、のようなものなのではないか。この「納得の形式」に沿って物語を組み立てれば、非合理的連鎖が合理的であるかのように納得される、というような。

(このような「納得の形式」を生むものは、合理性と象徴性のハイブリッドなのではないか。)

(あるいは、非合理的な出来事それ自体のもつ不可解なリアリティや、非現実的で幻想的な出来事のもつ魅惑的な力がないということではなく、それらよりも「納得の形式」の強さの方が勝っている、というべきか。)