2019-07-27

●『甘木唯子のツノと愛』(久野遥子)というマンガを読んだ。「Airy Me」をつくったアニメーターの作品。

Airy Me

https://www.youtube.com/watch?v=VJ5QvrGxTnQ

収録されている四つの作品(三つの短編と一つの中編)のすべてで絵柄を変えてある。だがその変化は、スタイルの問題というより、パラメータの設定によっていくらでも違う描き方ができる、みたいな感じで描き分けているようにみえる。まるで、ある方向から撮った写真を見せられれば、その風景についてならどんな視点からでも描けるみたいな感じで、ある絵柄から別の絵柄へと、カメラの視点を移動させるように自由に移行することができる、みたいにして描くことができる人であるようにみえる。

(それができるためには「手が絵が上手い」だけでなく「頭が絵が上手い」必要があるのだろう。)

物語の主題や内容についても同様で、どの作品も、移ろいやすさやメタモルフォーゼの感触を基底にもちながらも、そのような感触が、どのような形や色合いをもち、どのような切り口や様相において出てくるのかは、パラメータの設定の如何によってどのようにも可変的である、というように作られているのではないかと感じられる。

つまり、現れているものの表面をみるのならば、(表現的にも、内容的にも)多様であり、その都度異なるスタイルで現れ、バラバラであるとさえ言えるのだが、その元には、コーヒーカップもドーナツも同型であるというような意味での、ある潜在的な同型性があるように感じられる。

この同型性は、ある原型的な形があって、それが多様に発展しているといよりも、形のない潜在的なものとしてあり、ある形式から別の形式へ、あるモチーフから別のモチーフへの移行を通してしか見えてこないようなものなのではないだろうか。とても不思議な作家性だと思った。