2019-10-25

 ●引用、メモ。(昨日からのつづき)『超人の倫理』(江川隆男)より。

●超人とは

(…)ここで言われる超人とは、人間とは別の、新たな来るべき人種のことではありません。私はここで、「超人」をある意味で人間のなかにしかない或る種の働き、すなわち倫理作用の別名であると考えたいのです。》

《超人はつねに若干の超人であり、その限りで人間におけるある部分なのです。超人とは、人間のうちに存在する部分的な強度のことです---倫理的強度。》

《この倫理の働きは、まさに個人の個人化する一つの生としての実験的精神に宿っているとも言えます。言い換えると、超人とは、生一般の問題でもなければ、一般的な生の課題になどけっしてなりえないような問題だということです。》

《それゆえ、〈よい/わるい〉を含む倫理作用は、〈善/悪〉や〈真/偽〉といった超越的な諸価値に基づいて、一つの生を生一般のもとでさまざまに規定してきた道徳的な遠近法に対するあらゆる抵抗力を有しています》。

●生活法・様式を与える・自分自身との和解

《たしかに、(超訳され通俗化された、人生に役に立つニーチェの言葉のような)こうした意味での〈活用--道具箱〉は、私たちの表象生活に対して僅かな効果をもつかもしれません。しかし、それだけでは人間は生成と遭遇できないし、表象するだけではその生成に存在を与えることはできないでしょう。》

《生成に存在の性格を刻印すること----これが最高の力能の意志である》(ニーチェ「遺された断想」)

《さて、そこで提案したいのが「生活法」(vivendi ratione)という考え方です。ここに言う生活法は、習慣とは異なるものです。つまり、それは、けっして別の習慣を勧めたり、別の習慣を身につけたりするためのものではありません。》

(…)生活法とは、言い換えると、自己と自己に関わる事柄とに「様式を与えること」です。それは、この習慣あるいはかの習慣、それらがもつ価値感情に反するような、解釈や価値評価から形成される実存の様式であり、存在の仕方だと理解してください。》

(…)そこには、実は自分自身との和解という重要なテーマが含まれているのです。》

《人間が自分自身と和解に達すること、この一事のみが肝心なのだ。---それはどんな文学や芸術によってであってもよい。そうしてこそ、人間ははじめて見るに堪えるものとなる! 自分自身と不和である者は、いつでも復讐の機を窺っている。われわれ他人はその犠牲となるだろう。》

《つまり、それは、弱点というかたちでしか与えられていないような、自分自身の或る実在性があって、それを自分自身のうちに肯定的に組み込んでいくことなのです。》

《それは、言わば〈生ける弱点〉という考え方です。それは、弱点をいかにして長所にするかという習慣上の道徳化した自然主義とはまったく別のものです。しかし、その総称が「教育」と呼ばれているものです。》

《弱点は、長所や力量の欠如なのではなく、それだけで一つの実在性を有しています。弱点も、その者の「できる」をしっかりと作り上げているのです。弱点もその人物の構成要素の一つなのです。つまり、弱点は、完全性の度合を有しているということです。したがって、それを破壊すると長所も破壊されてしまう場合があります。》

《フランスの偉大な作家、マルセル・プルースト(一八七一 - 一九二二)は、嫉妬を愛の不幸な結果と考えることを止めます。彼は、一つの価値転換を行うわけです。それは、嫉妬深くあるために愛するという転倒です。》

●生活法・文体を与える(文法なき文体)

(…)「様式を与える」は、「文体を与える」と言い換えることができます。文体は文法ではなく、また文法に還元不可能なものです。》

《この限りで〈文法なき文体〉が問題となります。つまり、習慣を前提としない生活法です。》

ニーチェは興味深いことを言っています。言語の類縁性を示す文法の機能、あるいは文法を共有する哲学的思考は、無意識の元に人間を支配し続ける、と。》

《ここでニーチェが言いたいこと、あるいは単に確認していることは、およそ次のような事柄です。

(1)論理学あるいは「論理学信仰」は、習慣あるいは経験のうちで形成された「事物信仰」をけっして解体しないということ。

(2)論理学は、すでに「われわれが定立した一つの存在図式」に従った文法、つまり習慣上の同一性信仰に合致した文法を有するということ。

(3)論理学化された意識と同様、論理学の無意識も、習慣によって準備された以上のものではないということ。つまり、それは新たな仮象を産出しないということ……等々。》

《「自己同一的A」は、〈人間は言葉を用いてしか何事かを語り考えることができない〉というこの---きわめて道徳的な言語信仰とでも言うべき---考え方にこそ、つまり、「文法機能による無意識的な支配と指導」に感染した考え方にこそ適用されるものです。これこそが、ニーチェが言う「事物信仰」を前提とした、すなわち〈与えられる文体〉を無視して言語や思考を文法機能へと平板化する考え方を前提とした立場以外の何ものでもありません。》

《言葉や思考を真に多様にするのは、習得した語彙の豊かさや地球上の言語の数の多さなどではありません。》

《そうではなく、反対に文体だけが人間の言語と思考とを多様にできるのだ、と考えてみてください。〈文体を与える〉とは実はこうした意味をもつのです。しかし、何に対して文体を与えるのでしようか。》

(…)それは、一つには諸感情の連鎖に「文体」を与えるということになります。この連鎖は、あの所産的な自然主義のもとで構成された道徳的な因果連鎖(例えば、日常の価値感情)をなしていますが、それらを切断して非習慣的な「配列関係」にすること(例えば、すでに述べたような、長所と短所(愛と嫉妬、……)との相対的関係を切断して配列関係におくこと、等々)、これが様式あるいは文体の一つの役割であり、生活法の形式になりうるわけです。》

●差異の肯定(=自分自身との和解)

《差異を肯定すること----これが、いま私たちのすべての営みに欠くことのできない動詞ではないでしょうか。》

《つまり、差異を肯定することは、実はニーチェが述べていた、「自分自身との和解に達する」ための方法なのです。》

《この肯定性から何が知覚されるようになるのかが大事なのです。それまで見逃していた、あるいは見ることのできなかった点が、その対象のうちに知覚できるかもしれません。》

《では、差異の肯定は、差異を否定しようとする者たちをも肯定するのでしょうか。残念ながらあるいは不幸にも、必ずしもそういうことにはならないでしょう。》

《なぜなら、差異の肯定とは、多様性の肯定だからです。差異の肯定とは、自分自身も含めた他者の多様性の肯定のことなのです。したがって、差異の否定が多様性の否定に直結しているのであれば、私たちはその否定との闘争をやはり繰り広げる必要があるわけです。差異の肯定=自分自身との和解=他者の多様性の肯定。》