2019-10-26

●引用、メモ。『超人の倫理』(江川隆男)、第二章「超人の身体」より。

●心身の「相互作用論(デカルト)」と「並行論(スピノザ)

(デカルトに代表されるような)心身の相互作用論では、精神と身体との間には実在的な因果関係が成立していると考えます。つまり、精神が能動的に身体に作用するとき、身体はその働きを受け、また逆に身体が精神に影響を与えるとき、精神はその働きを受けとると考えられます。要するに、一方が能動的・活動的であれば、他方は受動的・受容的になるという考えです》。

《心身の相互作用論と異なって、精神の能動は同時に身体の能動であり、また精神の受動は同時に身体の受動である、と考えるのが心身の並行論です。》

(…)心身の並行論が有している意義は次の点にあります。》

①《精神は精神にしか関わらず、身体は身体にしか関わらないということ、つまり、観念は観念にしか関わらず、延長物は延長物にしか関わらないということです。言い換えると、因果関係は、精神と精神との間で、身体と身体との間でしか成立しないということです。》

②《精神が能動的で、別の精神に対して原因となるならば、それと同時に身体も能動的で、別の身体に対して原因となることができます。これとは反対に、精神が受動的で、或る精神による結果となるならば、それと同時に身体も同様に受動、別の身体による結果となるわけです》。

③《精神と身体は、まったく異なる存在の様態---一方は延長物で物体、他方は非延長物で非物体的な観念---であるにもかかわらず、存在論的には完全に対等(これを実体は「一義的」(univoque)と言います)であるという考え方が確立されます》。

(…)並行論は、スピノザに従えば、身体(=物体)が認められるところには必ずそれに対応した精神が存在するということを言明しているからです》。

(…)人々が机に精神を認めがたいのは、あるいは習慣的に机を物体の側面からしか認識しないのは、机の物体(身体)に対応したその精神の大部分がその身体と同様にほぼ受動性で充たされているからだ、と。》

(…)樹木であれ机であれ、何であれ、その身体(物体)があるところには、必ずそれに対応した精神が存在するということです。これは、机の場合、その机の身体の受動に対応した、まったくの受動で充たされた精神がそこに存在する、ということを意味しているだけです。》

《それゆえ、物体の側から観ても、精神の側から観ても、自然物と人工物との間には本性上の決定的な差異などなく、単に度合いの差異があるだけだということになるだろう。》

スピノザの場合、それは「自然あるいは神」から必然的に言われる事柄です。スピノザにおいては、自然は神と同じものです。これを仮にここで〈大自然〉と呼ぶことにしましょう。正確に言うと、これは、生み出す自然としての「能産的自然」(Natura Naturans)と生み出される自然としての「所産的自然」(Natura Naturata)とに共通の「自然」のことです。》

●属性と様態

スピノザにおける神---すなわち〈大自然---は、無限に多くの属性から構成されると考えられます。しかし、私たちが知りうる属性はそのうちの延長属性と思惟属性だけです。そして、延長属性はその様態として身体をもち、思惟属性はその様態として観念をもちます(精神とは、こうした観念から構成されたものです)。つまり、私たちがこの二つの属性しか認識しないのは、そもそも私たち自身がただ精神と身体によってのみ構成された個物だからです。》

《実体は、まず自らを表現する諸属性から構成されています。そして、この属性を通じて自らの変化を様態として産出することになります。様態は相互に多様な差異を有しています。そして、こうした「差異」に対して「共通のもの」が実体であり、その属性だということです。》

《実体の属性の一つを、例えば、「白」だと考えましょう。この「白」という属性を通じて実体が多様に変化するということは、そこに多様な「白さ」---無数の「白さ」の度合い---が産出されるということです。》

《ここでは、一方の様態の「白さ」が他方の様態の「白さ」よりも優れているとか、真の「白さ」に近いとか、というようなことは、まったく意味がありません。これは、多様な「白さ」について属性「白」が一義的であるということです。つまり、「白の一義性」です。これをあらゆる存在者について言うと、それは「存在の一義性」という考え方になります。》

●並行論の生成変化

(…)精神とは何か。それは、観念の集合体のことです。そして、観念は、必ず何かについての観念です。つまり、観念とは、つねにその対象を認識し理解する仕方、様態のことです。では、ここまで述べてきた心身の並行論において、精神の対象、つまり観念の対象とは何だったでしよう。それは、何よりも自己の身体です。》

《目の前の或る対象aの存在を精神や心が直接に認識しているわけではありません。その対象aの身体が原因となって、私の身体に刺激が与えられることで、私はその対象aの存在を認識するわけです。》

《つまり、観念の対象は、自己の身体そのものではなく、実は自己の身体の変様だということになります。一つの精神を構成する諸観念は、自己の身体の変様についての諸観念なのです。このように、心身の並行論は、具体的には、身体の変様(=身体)とこの変様の観念(=精神)との並行論を意味しています。》

(…)私たちの問題は、現実の心身関係を単に説明しようとするだけの並行論ではなく、まさにその並行関係そのものの成立水準を変えること、その生成変化を次々と生み出すような並行論なのです。》

●感情

《感情も自然のうちにある限り、自然の法則に従っていると考えるべきでしょう。ネガティブな感情も、何らかの実在性を有するはずです。感情は、単なる自分の内なる気分ではなく、外部の物体に関するきわめて本質的な一つの認識の様式なのです。》

●精神の三つの位相と身体の三つの変様

《単に物を記憶し表象するだけの精神ではなく、そこから概念を形成するような精神が合一されるべき身体とは、どのようなものでしょうか。そうした身体は、この精神の生成変化と並行して、何が、どのように変化するのでしょうか。》

(…)「精神は思考する」あるいは「精神は認識する」と言われるならば、それに対応するのは何よりも「身体は感覚する」ということでしょう。つまり、精神における思考や認識が変化するならば、それと同時に身体の感覚や変様も以前とは異なったものになっていくということです。これは、逆も言えます。身体の変様が以前と異なった仕方で在りえるならば、それに対応した精神の変様も同時に認められるでしょう。》

●その一

(精神)(1)第一種の認識「想像知」:感覚可能なものの刺激や漠然とした経験を通して形成される、混乱した知覚や非十全な観念からの認識。》

(身体)(1)もっぱら感覚可能なものの存在によってのみ変容するような身体の存在。》

《感覚可能なものの存在とは、文字通り、感覚してもしなくてもいいような仕方で現れるその物の存在からの刺激のことです。必然性なしに感覚するその仕方は、別の物からの刺激でもよかったということになります。しかし、ここに感情が関わっていると考えると、とたんに事態は変化するように思われます。感覚から感情へ。》

《というのも、私たちは、そうした可能性のなかでも、或るものからの触発がとりわけ自己にとって〈よいもの〉であることを経験し、またそうしたものについての喜びの感情に刺激されることを経験しているからです。》

《それは、その物の個別性の観念からその特異性の観念への変化なのです。つまり、そこには精神における非身体的な生成変化が含まれているということです。端的に言うと、喜びを増大させようとする自己の努力は、つねに自分にとっての特異なものとの出会い・遭遇へのベクトルをもつということです。これが自己の生存の内在的規準である〈よい/わるい〉に従って明らかになる対象の価値なのです。》

(…)自己の喜びをいつも単なる偶然の出会いに任せるのでなく、〈よいもの〉との出会いを必然的にするには、何が必要となるでしょうか。それは、概念であり、こうした概念に対応する身体の触発です。》

●その二。

(精神)(2)第二種の認識「理性知」:事物の存在の特質について共通概念や十全な観念を有する認識。》

(身体)(2)それら感覚可能なもののうちで、感覚されるべきものの存在をより多く感覚するような身体の存在。》

(…)喜びをもたらすものとの出会いを偶然に任せるのではなく、自分とその対象とに共通するものの概念を作り上げようと欲望すること(…)---表象像にもとづく選択から特異な概念の形成へ。》

(…)例えば、或る対象aが、或る人にとってはよい対象であって、その物との関係において喜びに刺激されるとしても、他の人には悪しき出会いを示す原因でしかなく(…)ということを考えることができます。》

《それでも、その或る物が自己にとってよい対象であるかどうかの規準は、その対象と自己の身体との間に成立する触発関係のうちにしかないでしょう。》

《ここには心身の並行論に関するきわめて本質的な事態が含まれています。というのも、それは、実は完全に物理的=身体的(フィジック)な諸法則のうちにある問題だからです。身体は、物理的な延長物であり、したがって物理的な諸法則に従っています。》

(…)すなわち、個々の身体のもとでしか明らかにならない物理的=身体的な諸法則が存在するということです。それは、まさに特異性の法則です。そして、それこそが、個々の身体のもとで明らかになる〈よい/わるい〉の内在的諸規準なのです。》

《身体こそが、もっぱら〈善/悪〉に従う精神とではなく、まさに喜びと悲しみの感情のもとで〈よい/わるい〉の観念を形成する精神と合一する唯一の存在なのです。》

《そうした観念をスピノザは、「共通概念」と称しています。こうした特異性の概念が各人のもとで形成されるとすれば、たとえその都度のよい対象を失ったとしても、そこで形成された共通概念まで失われることはありません。》

《特殊な線や色、特別なメロディやコード進行と出会うだけでは、まだ画家でも作曲家でもありません。彼らは、自己の身体がもつ諸感覚と、そうした身体の外部に現実に存在する感覚可能な諸要素との間においてのみ成立するような共通の本性についての概念、共通概念を形成する必要があるわけです。》

《こうした概念は、実際に身体の変容との並行関係のもとで形成された物の理解の仕方だということになるでしょう。身体の変様が対象の差異を私たちに伝えるのだとしたら、共通概念そうした差異にリズムを与えること---あるいは文体を与えること---とさえ言えるでしょう。》

《このときの身体の存在は、その精神の運動に対応して、感覚可能なものにおいて感覚すべきものをより多く感覚するような存在になっているということです。(…)身体が、単に感覚可能なものによってではなく、実際に感覚すべきものによって変様を受けるということです。言い換えると、これは偶然から必然への実質的な移行です。》

(…)精神が現実に存在する特異なものについての概念を形成するプロセスは、身体の現実的存在があくまでもその存在のもとで身体の本質とより多く一致しようとするプロセスと同一だということです。》

《特異なもの(このもの、よいもの)を失っても、その特異なものとの間に共通概念を形成するならば、私たちはその実在的経験をつねに現在のものとすることができます。しかしながら、自分が死んでその心身の存在が無くなってしまえば、その経験の現在も消滅してしまうことでしょう。そこで、どうしても身体と精神に関する存在上の触発ではなく、その本質における触発を考えることが必要になってくるわけです。》

●その三。

(精神)(3)第三種の認識「直観知」:事物の本質についての直観的な認識。》

(身体)(3)もはや身体の存在ではなく、身体の本質を触発するような仕方で自らの感覚すべきものの本質を感覚する身体。》

(…)これは、身体の本質が、個々の感覚可能なものの存在ではなく、特異性としての感覚すべきものの本質を感覚するということです。》

(…)ここでは単に自己の身体の現実的存在が変様するのではなく、自己の身体の存在によって身体の本質が触発されるということです。》

(…)この第三の変様では、身体の現実的存在のこの変様のもとで身体の本質が触発されるということが生じるのです。そして、本質におけるこの私欲初の部分こそ、まさに特異なものの本質の真の永遠性だと言えるでしょう。》

(…)この身体の本質における触発は、そしてこの触発に対応する精神の直観知は、その身体の存在や精神の持続が失われた後も、つまりその人の死後も存続する不死なるものであると言えるでしょう。》

《本質は、一般的に永遠なるものとして定義され、存在に左右されない抽象的なものとして措定されます。しかし、ここではその本質が存在によって触発を受けるわけです。そんな経験を考え実現しようとするわけです。》

《このような身体の感覚と精神の感情が、あるいは身体の活動と精神の思考が、あるいはこの二つからなる私たちの経験が、各個の人間の本質を触発し、それによって各個の人間の本性を変化させるにまで至るということ、これこそが、実はここで述べたかった「倫理学の実験」の一つの結果、生成する心身の並行論の自由活動の一つの結果なのです。》