2020-01-31

Netflixに何故かデヴィッド・リンチの短篇があった。『ジャックは一体何をした?』、約17分の作品。出演しているのは、コーヒーを運んでくるウェイトレスの女性以外は、リンチとサルとニワトリのみ。

場所は、鉄道の乗換駅の近くにある警察の取調室だろうか。どうやら事故かなにかで鉄道が全面的に泊まっているようで、外からは汽笛やざわめきが聞こえる。そこで、容疑者であるらしいサルが、刑事であるらしいリンチから、ある(ニワトリをめぐる)情痴殺人についての尋問を受ける。

この作品の肝は、サルの顔に人間の口を貼り付けて、サルにセリフを喋らせているという一点にあるだろう。あと、サルと人間(リンチ)が向かい合って対等に対話することからおこる、スケール的不協和も重要だろう(人間にとってはやや小さくて、サルにとっては大きすぎるという、セットのスケール感も絶妙)。

サルに言葉を喋らせるといって思い出すのはなんといってもルゴーネスの「イスール」という小説だ(ルゴーネスの小説でサルはチンパンジーだが、リンチの映画ではもっと下等で小刻みに動く小さいサルだ)。だが「イスール」において言葉を学ばされるサルのイスールは死の間際まで話すことはせず、その言葉の不在は《イスールが話さないのは話そうとしないからだ》と書かれるように、沈黙は逆説的に彼に豊かな内的性質や意思があることをほのめかしている。

一方、リンチの映画で(やや粗雑な合成によって)人間の---よく喋る---口を貼り付けられた饒舌なサルは、その饒舌さによって返って彼の内部の何も無さを強調しているかのようにみえる。言葉は単に、どこかからやってきて彼の顔に貼り付けられた口が勝手に喋っているもので、彼の動作や立ち振る舞いからは、内的な性質も意思も感じられず、ただ状況にせき立てられて反射的に動いているようにしか見えない。彼の言葉は口から出任せですらなく、言葉がどこか遠くから降りてきて、たまたまその口をついて出てきているだけのように見える。

その動きはまさに下等な獣の動きなのだが、しかしそこに「言葉」が貼り付くことで、その「下等な動物の動き」が人間に近づいてもくる。これは(たとえば「キャッツ」のように)動物を擬人化するのではなく、その逆に、人間を獣化しているかのようだ。獣化され、まさに下等な動物のように動く「ジャック」は、言葉を発することで、それでもけっこう人間のようにみえる。つまり、人間もまた多くの部分で獣とかわらない。ここに、人間と獣とがその境界付近で混じり合う、とても危険なゾーンが開けているように感じられる。

(サルの顔、姿、動きに、人間の口と言葉を強引に接合することは、サルの人間化というよりむしろ、人間のサルへの退行を強く感じさせるように思う。これは、前言語的なレベルでかなり「来る」感じだ。)

人間であろうとサルであろうと変わりはなく、「言葉」はどこか別の場所からやってきて、たまたまそこにある「口」に貼り付く。その時、言葉を喋っている「口」から分離した「顔」の他の部分が、人間も獣も区別出来ないような、境界的なゾーンに突入することで、ある表現性を得る。語れば語るほど、語られる内容(語る口)と、語る者の顔=表現とは乖離していく。分離したままで併走する言葉(内容)と顔(表現)との二つの流れは、擬似的対話(というより一方的な「尋問」)による圧迫の強度に押しつぶされるかのように、ある地点でスパークして、合流し(あるいは決定的に乖離し)、「声+顔=叫び」となる。分離していた言葉=内容と顔=表現が、「叫び」となってぶつかる場面が、この作品のクライマックスだといっていいと思う。

(しかしその前に「歌」の場面がある。リンチの映画に歌が出てくると、前後の脈絡と関係なく、いきなりやたらと幸福感が溢れるのも面白い。)