2020-02-01

●RYOZAN PARK巣鴨保坂和志の小説的思考塾vol.8。今回は「描写」について。

とても興味深かったのは、保坂さんが小説における描写を「身振り」や「居ずまい」のようなものだと考えているところだった。今、しゃべりながら、このような身振りをしている。しゃべっている内容が本筋であり、身振りはそれに付随して出てくるものとも言えるが、しかし、身振りがあることによって伝わることがあり、さらに、身振りをすることによってこそ、それにひっぱられて(本筋である)言葉が出てくるということもある。身振りがあることによって、「しゃべる」ということの基底がつくられているともいえる。描写をすることによって、表現すべき何かが出来するための(文の地平における)地がつくられ、表現の発動の準備がなされる。描写についてのこのような考え方を、他ではあまり聞いたことがないが、なるほどと納得するものだった。

そのことと関連があると思うのだが、記述の順番についても語られた。たとえば『勝利』(コンラッド)では次のように書かれる。

《次の日、アルマと呼ばれるあの娘に出会ったとき、彼女は稲妻のようにすばやい視線を彼の方に送った。いとしさをあらわに示したその一瞥は、彼の心に深い印象とひそかな感動を与えた。それは昼食前の、ホテルの庭での出来事で、楽団の女たちが、リハーサルと呼ぶにせよ発声練習と呼ぶにせよ、とにかく音楽室での朝の稽古を終えて、別館の方にぶらぶら戻る途中のことだった。》

ここではまず、アルマによる《稲妻のようにすばやい》印象的な一瞥があったことが示され、後から遅れて、それが起こった状況が語られる。なんということもないようにも思われるが、これはなかなかできることではない、と。通常は、出来事の起こる順番にひっぱられて、ある場面を順番に描出するなかで、場面内の重要な出来事として「印象的な一瞥」を描くが、その場合は往々にしてべたっとした記述となり、印象的な一瞥が際立たなくなる。そうではなく、記述の順番と出来事の順番との関係はけっこう自由に行き来しても大丈夫であり、むしろ出来事の順番を無視しても「思いついた順番」で書いてしまった方が書きたいことが伝わる場合も多い、と。

身振りとしての描写が表現の体勢のようなものをつくり、思いついた順番で書いていくことによって表現の特質のようなものが生じるという考えは、書くことの身体性を重視する保坂さんらしい考えだと新鮮に感じた。また、谷崎の『吉野葛』を例に挙げて、描写と写生文とは違うと言っていたこともまた、身体性の惹起ということとかかわっているように感じられた。物事をいくら詳細に描き込んだとしても、それが視覚像にのみ収斂していき、「身振り」のような形で表現の体勢の準備・惹起(開かれ)につながらない場合もあり得る、ということではないか(ここは多分にぼくの解釈が入っています)。保坂さんが、「描写そのものを読ませる」ような小説に対して割と否定的なのは、詳細な描写が逆に「身振り」の自由度を狭め、抑制する方向に働くこともあるからではないか、と思った。

たとえば、ガルシア=マルケスの描写の「技術」について触れた場面。

サンティアゴ・ナサールの家は、かつて二階建の倉庫だったもので、壁には荒削りの板が使われ、山形のトタンの上では禿鷹の群れが船着き場のごみ屑をじっと狙っていた。それが建てられたのは、河が盛んに利用され、数多くの艀とともにときには豪華船さえもが危険を冒して、海から河口の沼沢地を通り抜け、ここまで遡ってきた頃だった。》(『予告された殺人の記録』)

まず、河に近い家の描写のなかに、船着き場のゴミを狙う《禿鷹の群れ》がモンタージュされ、そこから歴史的な記述へと移行していく。描写のなかに新たな運動の要素(餌を狙う禿鷹)を招き入れ、さらに別の視点(歴史)と接続する。このようなモンタージュは真似る(学ぶ)ことの出来る「技術」であるが(マルケスの文章はかっこよく、そのかっこよさは明確に意図的につくられている)、ここにある「技術」は、描出による対象の明確化の技法であるよりも、記述における注意の移動や、記述の流れの運動性の獲得にかんするものであろう。ここでもまた、「描写は身振りである」という考え方が貫かれているように感じた。何かを引き出すために有効な身振りの手順のようなものとして、マルケスの「身振り」は真似をすることができる、と。

●また、学ぶというか、エクササイズとして、ある作家の描写の構造を、そのまま、自分の身近にあるものの描写へと、対象を置き換えて、書き換えてみることも有効だ、と。たとえばカフカの描写を、現代の風景に置き換えて書き直してみる、というような。これもまた、他者に身体においてなされた「身振り」を、自らの身体において真似して(再現して)みる、ということに近いかもしれない。

●それと、散文には「量」が重要だという話も印象に残った。小説には、はじまりと終わりがあるが、それはどちらも大して重要ではなく、その中間をいかにして充実させて持続させるのかということが重要で、そしてその「中間」を、どれだけ持続できるか、どれだけ(それ自体として面白いものである)記述を重ねられるのか、という、ある程度以上の「量」が必要になってくる、と。

●『カンバセイション・ピース』で、話者の《私》が二階の窓に腰をかけて外を見ていて、その後、階段を降りていってもなお、「視点」は二階に残り続けている場面について。これは、視点の移動というより、視点が身体に「置いて行かれた」感じ(視点が身体からふっと離れて、身体が移動した後も視点がそこに留まった感じ)で、幽体離脱のような感覚に近いのではないかと思った。視点が身体に「置いて行かれてしまった」感じと、この二階の場面の「誰もいない」感じとは、どこかで響いているのではないかと思った。