2020-02-11

●忙しいというより、頭のなかに大きく占めるものがあり、頭に余裕がないのだが、ときどきは気分を変えるために、最近出たあたらしいルゴーネスの翻訳をちょっとずつ読んでいる(一篇がとても短いし)。面白い。

以下、「死んだ男」より一部を引用。

《「わたしは気絶の病を患っていたのですが、その症状があまりにも死に似通っていたために、周囲の人々をひどく心配させた挙句、結局のところわたしがこの病気で死ぬことはあるまいという確信を彼らに与えることになりました。医師たちもその確信が正しいことを請け合いました。どうやらこの男はサナダムシにやられているらしい、というわけです。

ところがあるとき、いつものように気を失ったわたしは、そのまま意識を取り戻すことがありませんでした。わたしの苦悩の物語はここにはじまるのです。狂気の物語と言ってもいいでしょう……。

わたしが死んだことを誰ひとり信じようとしなかったために、わたしは死ぬことができませんでした。自然の摂理にしたがって、あのときわたしはたしかに死んでいましたし、いまもやはり死んでいるのです。しかし、そのことが人間的な意味で現実のものとなるためには、死んでいるという事実に逆らう意志をもつことが、たったそれだけの意志をもつことが必要なのです。

わたしは、肉体的な習性にしたがって意識を取り戻しました。ところが、考える主体としてのわたし、客体としてのわたしはもうどこにも存在しません。この苦しみを言葉で言い表すことは不可能です。無への渇望とは恐ろしいものです。」

男はこれだけのことを淡々と語ったが、その真に迫った話しぶりは、聞いていると怖くなるほどだった。

「無への渇望! いちばん始末に負えないのは、眠ることができないということです。三十年も目覚めたままなのです! 事物と永遠に向き合うことを、おのれの非在と永遠に向き合うことを、三十年も強いられているのです! 」

村人たちはすでに男の言い分をいやというほど聞かされていた。自分がすでに死んでいることを信じてもらおうとする男の度重なる努力は、いまやありふれた出来事となってしまったのだ。男は四本の蝋燭に囲まれて眠るのを習慣としていた。そして、顔を土まみれにして、野原の真ん中で何時間もじっとしていることがあった。》

 

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