2020-02-29

●「コタキ兄弟と四苦八苦」、第8話。なんとも味わい深いいい話だったので、録画したものを三回つづけて観てしまった。リアルな話やシリアスな話ではない、軽いコメディだからこそ成り立つ、とても「いい話」。このドラマ、当初から観ていて、なかなかエンジンがかからないなあと思ってきたのだが、前々回くらいからぐっと面白くなりはじめてきて、ここまで観続けてよかったと思う。

(イマイチ面白くないと思っていた第5話---ゴドーを待ちながら?---だが、8話のための伏線というか、8話が成立するための土台となっていたのだった。8話を観ると、5話のラストちかくにあるさっちゃん---芳根京子---によるボケとも言えるセリフ「がんばれば、あの店もらえるかなあって…」の意味に遡行的に深みが増す。)

うっすらと謎の気配をまといつつも、ドラマとしてはマスコット的な役割にある「さっちゃん(芳根京子)」だが、野木亜紀子の脚本によるドラマにおいて、マスコットがマスコットの役割に留まったままであるはずがない。しかし、物語の核心を担うような(どんでん返しのキーとなるような)「特別な存在」であれば、逆の意味でやり過ぎだろう。

取るに足らないほど小さなものではない切実性をもち、かといって大事件というほどでもない、さっちゃんの事情(願望・失意・迷い)が、さっちゃんの側から、「夢」「他者との位置の入れ替わり」「並行世界」「反復」といった非リアリズム的な物語装置を駆使して提示される。それが夢として示される以上、事情の描出は具体的であるより抽象的であり、図式的である。だがそのことが、「父」や「恋人」という回帰すべき場所を失った者(さっちゃん)のよるべなさをリアルに表現していると思う。

さっちゃんは、二人の「おやじ」との入れ替わり(野木亜紀子の作品において位置の交換と行為の反復はとても重要な要素だ)を通じて、自分が「男」になりたいわけではないこと、また、ひとくくりに「男」といっても(自分もそうであるように)それぞれに異なる個別性を背負っているのだということを(知ってはいたのだろうが、改めて)自覚する。

「父」の場所も、「恋人」の場所も失って、行き先(帰る先)を見失って迷走しているさっちゃんではあるが、しかしそれでも、第三の回帰すべき場所(ローマ)に、無自覚なままたどり着いていた、と。とはいえこれはあくまで、(狸の腹に書かれた)「仮のローマ」であり、仮の居場所だ。おやじたちもさっちゃんも、狸にばかされた世界で共にいるだけかもしれない。だが、仮の居場所ではない居場所などあるのか。

(これにより「さっちゃん」は、喫茶店のウェイトレスとして、コタキ兄弟に対する傍観者的第三者であることができなくなる。彼女自身の存在の内に、コタキ兄弟との関係が既に織り込まれてしまっていたのだ、ということになる。ここでもまた、登場人物間の関係の構造の大きな変化が起きている。)