2020-03-16

●「コタキ兄弟と四苦八苦」、第10話。とりあえず「老苦」という主題が提示されるが、ここには多様な問題の交錯があり、多様な視点がある。兄には兄の地獄があり、弟には弟の地獄があり、その二つはまったく似ていないし、重なることもない。だが、そのどちらもの原因である「父」を前にして、決して重ならない二つの異質な地獄が交錯する。

(ここで兄は、はじめて、母に優遇され、都合の悪い時はただ逃げていたと思っていた弟にも、弟なりの地獄があったことを知る。この意味で、「父」は兄と弟の媒介となったとは言える。)

古舘寛治(兄)と滝藤賢一(弟)が連れだって、施設にいる父(小林薫)を訪ねる場面。この時に父は既に、都合の悪いことはすべて忘れている。故に兄も弟も、父に抗議し、怒りをぶつけることもできないし、父にはもはや、過去を悔恨する能力も、兄弟に謝罪する能力もなく、また、悪役(悪い父)を悪役として引き受け、徹底して演じきる能力もない。弟の示す苛立ちも、そこで語られる母の壮絶な死に様(父に多くの原因がある)も、その罪の源泉であり、語りの感情の宛先であるはずの父に届くことは決してない。父は半ば別世界にいるので「敵」たり得ない(敵をたたいても意味がない)。そこにいる老いた父は既にかつての父ではなく、二人の憎悪を受け取る(怒りや憎悪の対象としてあるような)、悪の源泉たり得る能力がないから、言葉も感情も素通りしてしまう。にもかかわらず、そこにいるのは、間違いなく「あの父」でしかない父そのものの姿をし、その性質を色濃く示している、鮮明な像なのだ。もはや別世界にいるが、その像の重さだけを強く「ここ」に残している。

ぼけた父には、「あの父」として恨みや怒りを受けるだけの責任能力は既になく、にもかかわらず、まぎれもなく「あの父」が目の前に生々しく現前している。このような状況なので、兄弟は、父を許すことも、許さないこともできない。無視することも忘れることもできない。兄はその父に対して、「ただ哀れに感じただけだ」と言うが、このような言葉では自らの感情を納得させることはできていないに違いない。兄弟の過去の苦々しさは、解決されることもなく、過去として遠くの距離へと追いやることもできず、父の現前(出現)によって一層生々しくなって回帰し、その場にずっと留まる。

そして、兄は兄のいる位置から、弟は弟のいる位置から、それぞれに、その父の呪いが自分の存在の方に折り返され、折りたたまれてくる様を噛みしめ、それぞれに自分なりの行動を起こす。