2020-06-03

●(昨日のつづき)昨日の日記で『天気の子』について、《主人公の帆高が、世界を救うことよりも陽菜を救うことを選択する》ことについて《それほど重要なことではないと思う》と書いたが、これはちょっと適切でなかったかもしれない。

たとえば『君の名は。』では、主人公の二人の出会いからして「世界を救うシステム」に組み込まれており、だからこそ、二人は世界を救った後に、自分たちのために、改めて(それ以前とは異なった年齢差において)出会い直さなければならなかった。同様に、『天気の子』においても、「陽菜が犠牲となって世界が救われる」という現実を帆高が受け入れないということは重要であると言えるかもしれない。どちらにおいても「私」あるいは「私たちの関係」が、「世界を変える」ことの犠牲になることを決して受け入れない、という強い態度があると言える(関係ないけど、『天気の子』においても、二人の年齢差が途中で入れ替わる)。これは、「私が犠牲になることで世界が変わる」という世界(状況)を、「私」が変える、ということだろう。そういう意味では、『天気の子』においても、世界は(外見上ではなにも変わりはないにもかかわらず)変わっている、と言えるだろう。だから、『serial experiments lain』や『まど☆マギ』のような「私が消えることで世界が変わる(保たれる)」という物語とは、はっきり異なった態度を新海誠は示していると言えるかもしれない。