2020-09-12

●(ちょっと、昨日の付け足し、というか、言い直し)

『王国(あるいはその家について)』(草野なつか)の、元々のテキスト(脚本)がどういうものだったのかは分からないが、おそらくそのおおよその感じは、映画後半のテキスト読み下し(いわゆる「本読み」)の場面からうかがい知ることはできるだろう(テキストのすべてを読み下しているのではなく、省略はあるのだろうが)。

後半で示されるテキストのおおよその流れと比較してみると、映画前半で繰り返し上演されるいくつかの場面は、もともとあったテキストが表現していること(言いたいこと)の核心を表現するために、最低限必要な場面はどれと、どれと、どれなのか、という視点から選択されたものであるように思われる。

逆に言えば、それらの場面は、ただそれだけで言いたいことが言い切れると感じられるくらいに、多くのことを凝集して表現している、とても強いものだということだろう。さらにもう一回裏返せば、それらだけで充分に言いたいことを言い切れるのに、物語としての体裁(あるいは形式的整合性)を保つために他の場面も付け足して構築してしまうと、説明的になってしまうというか、屋上屋を架すようになって、かえって表現として弱まってしまうのではないかという感覚(テキストへの批評)があったのではないか。

そこで、物語としての形式を整えるというより、抽出された核心的場面に絞って、それを様々なフレームの切り取り方によって切り取って、何度も検討し直し、それらの場面に潜在的に含まれているものをより深く探り出すのと同時に、場面と場面との組み合わせ方をも何種類も検討することで、複数の場面間の関係によって表現され得るものをも、深く探っていくというやり方が採られたのではないか。

同一の場面の複数のバージョンが、ズレを含みつつ反復されていくという形式では、多くの場合、冗長性と分散性をもつ作品になる傾向があると思うのだけど、この作品の特徴は、それが主題の深層へ向かう深掘りという方向に作用しているのがとてもユニークだと思う。テキストの潜在性をできるだけ深く掘っていく反復。

この映画において、その深掘りのための語彙は、主に俳優の演劇的な演技であるように思われる。特に、その発声の制御において、俳優たちの演劇的演技のスキルが、この映画の表現のための重要なピースになっているように感じられた。

(おそらくその理由の一つに、テキストに書き込まれたセリフ、そして対話の有り様が、通常の意味で自然なもの---現実的な場面で人々が語る言葉---とはかなり異なった、生硬で構築的なものであるということもあるだろう。生硬なセリフや対話に、表現としての緊密な質感を与えるためには、演劇的な演技---発声---のスキルが必要なのだろう。)

とはいえ、この作品はあきらかに事後的な「編集(再検討)」によって(リニアな時間の流れとは別種の時間を構成---モンタージュ---することで)成立している作品であり、このような編集と同等の効果を、生身の身体を用いて、連続的な時間のなかで創造するのは困難だという意味で、撮影によってはじめて可能になる作品だというべきだろう。

(「撮影によって可能になるもの」の「撮影」について、具体的に深く考えるためには、あと何回か観直す必要がある。)