2020-09-17

●正義の表現の量的制限についてのメモ(思いつきのレベルだが)。

表現の自由は重要だ。なにかを表現することに対するリスクが高くなり過ぎると、人々は自由にモノが言えなくなって危険だ。しかしもう一方で、表現に対するリスクが低くなりすぎても危険なのではないか。それによって、至る所で、果てしなく、集団リンチが起こっているような世界になってしまうのではないか(というか、既になっているのではないか)。

表現への規制が、表現の内容にかんするものであることは許されない。しかし、表現の量にかんするものであるのならば、ある程度は受け入れられるのではないか。

あなたは今日一日で、これだけはどうしても許せないと思った二つのことがらについて発信することが許されます。ただし、三つめや四つめについては、明日以降にまでとっておいてください。もし、明日以降にもその許せなさが持続するようであれば、その許せなさがその日の一位か二位になったならば、その時にそれを発信してください、というような。

つまり、各々が、自分にとってある程度以上重要な「正義」についてのみ表現できるという状態。

テレビを観ていて、ある出演者に対して、こいつムカつくと思うとする。そして、それを言葉にして、一緒に観ていた友人たちと共有するとする。ここまでは、これまでいくらでも繰り返されてきたことだろう。しかし、それをそのまま同じ気軽さでツイッターに投稿するとする。そして、その苛立ちが、たまたま、多くの人の間で共振されて広がってしまったとする。たんなる一時の苛立ちの、しかも、直接的に関係のない人物に対する苛立ちなので、抑制がまったくかかっていない多数の苛立ちの表現が、その出演者に向かって押し寄せることになる。

仮に、その苛立ちが正当なものであったとしても(その出演者の言動が倫理的に看過できないものであったとしても)、それは好ましいことなのか。

(正義は消費される。人は、正しいことを言うことで満足し、すぐにそれを忘れるが、言われた側は、言われたことを忘れることができないだろう。)

(現代のメディア環境が、我々から「悪態をつく」自由や楽しみを奪ってしまった、と言えるのかもしれないが。)

(だとしても、「これはおかしい」と声をあげることそれ自体が抑制されてはならないだろう。問題なのは、それが充分に検討されるより前に、容易に拡散され、同調---あるいは反発---され、制限なく増殖してしまうことにあるだろう。つまり、パズるということが頻繁に起こってしまうことが問題なのだと思う。)

たとえば、ぼくはハッシュタグによるツイッターデモというのは、とても危険なものだと思う。それが、あまりにも手軽で、(安易な同調や反発に対して)あまりにも制限がないものであるから。

リアルなデモであるなら、まず、(1)自分の身体をデモが行われる場所まで移動させなければならないし、また、身体は一つしかないので、(2)同時に二つ以上のデモに参加することはできない。それらの条件によって、表現の「量」の制限が自然にかかっている。

それが、なんらかの形で(相手が権力者であろうと)他者を裁くことになるような(なにかしらの「正義」にかかわる)表現である場合、それがあまりにも手軽になされることは危険だと思う。しかし、そこで表現への抑制が、抑圧や忖度によってかかってしまうのであれば、それもまた大変に危険なことだろう。だから、表現への抑制は、量的なものでなければならないと思う。

世界には、無視することの許されない重大な問題が(未だ表に出ていない潜在的なものも含め)山のようにあるだろう。だから、問題についての表現が「内容」によって抑制(検閲)されてはならないだろう。しかし、一人の人間がそのすべてについて考えたり、介入したりすることは出来ない。一人の人間の生きる時間は限られており、また、その能力も限られている。ならば、一人の人間に許される(正義にかんする)表現の「量」もまた、限られているのではないか。