2020-09-24

●さらにつづき、『彼方より』(高橋洋)について。

●少し、整理し直してみる。

昨日の日記には、この作品のシチュエーションとして「リモート映画を撮っている」状況がフィクションとして描かれているかのように書いたが、そう断定できるかどうか怪しい。コロナ禍で実際に集まることが出来ない俳優たちが、いつ実現するかわからない舞台のリハーサルをZOOMを使って行っている場面と考えることもできるし、俳優たちが自主的にエクササイズというか、勉強会を行っている場面とみることも可能だ。

というか、重要なことは、シチュエーションを特定することではなく、どのような状況なのかよく分からない状態がつくられている、ということだろう。特定の状況を想定できないような時空が成立していて、どのレベルのフィクションが「フィクション内現実」として基底となっているのか分からないような状態をつくるということが、この作品で行われていることだろう。

これは一例だが、俳優たちは基本的にずっとライブの映像として示されている(撮影されている)のだが、(大田恵里圭の?)悲鳴が聞こえたあと、園部貴一だけ、なぜか録画映像に変わる。録画された園部貴一とライブ映像の河野知美とが対話することになる。通常の時空としては考えられない形になっている(時間の蝶番が外れている)。

だから、昨日の日記に書いたように、「フィクション1」と「フィクション2」という二つの層に分けられるという話も怪しくなる。そうではなく、複数の層のフィクションが雑居していて、それらが頻繁に横滑りするように移行していくと考えた方がよいだろう。

現実の俳優が、リハーサルをする俳優を演じていて、その演じられた役の人物がハムレットを演じている。そのような形で階層構造が出来ていると考えるのではなく、その都度、異なる組成のフィクションが、一時的に最表面に露呈してきては、また横にずれて別のフィクションの層がたちあがる、と考える方がよい。

たとえば、園部貴一が演じる俳優は「ハムレット」の一場面を演じているだけなのか、本当に人を殺してきたのか、よく分からない。というか、(俳優が)人を殺してきたとは考えにくいのだけど、作品として、あたかも人を殺してきたかのような(フィクション上で本当に人を殺したのと同等の)禍々しさがたちあがっている。つまり、作品上ではここで殺人があった。そのような意味で、基底となる一貫した(フィクション内)現実という位相はなく、フィクションの複数の層のたたみ込みとして作品が成り立っていると考えられる。

(つづく)