2020-09-28

●『「家庭料理」という戦場 暮らしはデザインできるか?』(久保明教)。おもしろい。「暮らし(図)を分析する知(地)という図式が、分析(図)を駆動する暮らし(地)という図式に転倒されていく」。以下、メモとして引用。

《学問的な知は、そうした「分析する私」のプロフェッショナルによって産出され、そのアマチュアによって受容される。経済学にせよ、心理学にせよ、社会学にせよ、学問的な知識の作り手と受け手はともに能動的だ。経済的活動や心理的動態や社会的関係は、私の外にあり、認識し分析し---決して容易ではないにせよ---操作する対象とされる。》

《では、それを可能にしているのは何だろうか。乱暴に言えばそれが「暮らし」である。》

《睡眠をとり、食事をして、体を休める。起きていれば眠くなり、時間が経てば腹が減り、毎日何度かはトイレにいき、他人が煩わしくなれば自分のスペースにひきこもる。全て受動的だ。避けがたい必要性を充足することができてはじめて私たちは受動性を避け、「分析する私」となる。難民になっても学問は続けられると断言する学者を、私は容易に信用しない。学問は主に暮らしへの埋没を回避できる人々によって営まれてきたし、そうであるからこそ、学問的な知は暮らしを言語化するのに向いていない。》

《学問的分析が図(figure)であるならば、暮らしは「地」(ground)だ。(…)「分析する私」はその背景としての「暮らす私」に依存する。だから、「暮らし」を「分析」することはきわめて難しい。特定の暮らしを前提として展開される知は、その前提自体に矛先を向けると意外な弱さを露呈する。それが依存する特定の暮らし方を相対化できず、ただ倫理的に肯定するに留まるか、あるいは、基底に関わらない枝葉末節を衒学的に言祝ぐだけに終始しかねない。》

《暮らしは学問的分析の「境界条件」(対象に対する有意な分析がなされうる範囲とそれ以外を分けるために設定される条件)を構成するともいえるだろう。「分析する私」の境界において何が有効で有意味で有意義か、それは「暮らし」という見えない足下においてやんわりと規定されている。例えば、夢を見たらその解釈のもと直ちに狩りに行くパプアニューギニア・ダリビの暮らしにおいて、夢を無意識の抑圧と結びつけるフロイト流の精神分析は有意性を持たない。》

《もちろん、ここで扱うのは境界条件としての暮らしそれ自体ではない。私たちの生活を構成する要素のなかでも、料理はとりわけ様々な評価や批判や提言が集中するものとなっており、しばしば「分析する私」の視界に入り込んでくる。だが同時に、家庭料理を分析的に語る様々な言葉は、それらの齟齬や矛盾や変容を通じて境界条件としての暮らしを照らしだすものともなっている。》

《暮らしは常に変わり続ける。「家庭料理」という言葉からイメージされるものも、激しい変化のなかでつかのま安定した像を結んでいるだけのものにすぎない。にもかかわらず、私たちはそれを脈々と継承されてきた不動のものであるかのようにイメージする。社会構築主義的に言えば家庭料理もまた社会的に構築されるものであり、同時に、社会的構築の基盤をなす暮らしを構築する契機である限りにおいて社会構築主義では捉えられない構築物である。》

《もとより、「モダン/ポストモダン/ノンモダン」という区分は便宜的な比喩にすぎないが、家庭料理という暮らしが構築される拠点の一つにおいて何が賭けられ、何が求められ、何が諦められていったのかを捉えるために活用する。それは、家庭料理(「暮らす私」)の軌跡を学問(「分析する私」)の軌跡のパロディとして描くことであるが、同時に、後者を前者のパロディとして照射することでもある。暮らし(図)を分析する知(地)という図式が、分析(図)を駆動する暮らし(地)という図式に転倒されていく。本書は家庭料理を通じて暮らしの変遷を分析するものだが、それによって、何かを分析するという視点それ自体を構成する暮らしの動態を炙りだすことを主眼としている。》