2020-10-02

●U-NEXTで、にっかつロマンポルノの作品の配信が大量に追加された。神代辰巳田中登曽根中生小沼勝などの、有名だけど観そこなっていた作品もけっこう観られるようになった。

で、『女地獄 森は濡れた』(神代辰巳)を観た。一応、サドの「ジュスティーヌ」が原作ということになっている。1973年の映画だけど、神代は73年には四本、次の74年には、一般映画も含めて年に六本も映画をつくっている。にっかつロマンポルノは低予算のプログラムピクチャーだとはいえ、この量は単純にすごいし、しかも質の高い作品が多い。

この作品は、ロマンポルノという枠内でつくられているにもかかわらず、65分の映画の最初の30分の間に、性交シーンが一度もないだけでなく、裸さえほぼ出てこない。これが許されるということは、既に監督として高い評価があって特別扱いになっていたということなのだろう。

とても面白かったし、怖かった。この映画はポルノというよりホラーであり、ここにあるのは、欲望や快楽の問題ではなく、恐怖の強迫的な反復の装置であると思う。恐怖は機械的に反復される。この映画で絶対的な権力者であるようなみえる山谷初男でさえ、機械的に反復する恐怖が到来するシステム(呪い)を構成する配役の一部であり、機械を駆動させる歯車の一つでしかないだろう。

山谷初男の権力も、中川梨絵の欲望も、そこに供物として供される伊佐山ひろ子の存在も、すべては恐怖を召喚する儀式のパーツであり、一種の書き割りであり、呪いに奉仕する構成要素であろう。反復(呪い)は冷たく淡々とした過程(段取り)としてあって、ただ、それによって召喚される恐怖のみが、生々しくリアルなものとして立ち上がる。

それは、(伊佐山ひろ子が)徐々に迷路に入り込み、罠に絡め取られていく、前半の魅惑的な空間表象や運動を伴う展開=過程と、後半の、時空の分節化を拒むような混濁した強さ(しかし、混沌へと落ち込むことなく持続する強さ)=恐怖とに、それぞれ対応すると思われる。

(これを観ながら、そういえば神代の映画には、とても魅力的な運動とそれによって開かれる空間がある一方、運動によって開かれた空間をぐしゃっと潰してぐずぐずにするような性交描写があるなあ、と思った。それは、ひろがりと、ひろがりを潰すことで生まれる強さ、ということの違いなのかもしれない。)

この作品から、痙攣的な恐怖の強さを脱臼し、反転(逆転)可能な関係の順列組み合わせ的な要素を残すことで、恐怖の反復強迫を笑いの反復強迫へと転化したものが、『悶絶どんでん返し』ではないかと思った。

(ただ、この作品で山谷初男は、召使いからムチで打たれるとしても、絶対的な権力者であることは揺らがないので、関係の逆転は十分には起こっていない。根本的な関係の逆転---裏返り---が生じるのには、『悶絶どんでん返し』を待たなければならない。)