2020-10-19

●『霊的ボルシェヴィキ』(高橋洋)は、先鋭的な霊的カルトグループが性急に「あの世」との接触を求めて失敗する話といえるが、ぼくにとってリアルなのは、その裏に流れている「わたしの入れ替わり」という主題の方だ。

(「映画」としてのこの作品のすばらしさは、なんといっても韓英恵の裸足のペンギン歩きにあると思うのだが。)

それは主に巴山祐樹と韓英恵の語りにおいてあらわれる。

巴山祐樹は、自分は恐怖というものを感じない人間だということを言う。そして、恐怖を知るために人を殺してみようと思った、と。当時付き合っていた恋人は二股をかけていたので、(二股の一方である)自分と付き合っていることを周囲に秘密にしていた。つまり、自分と彼女の関係を知る者がいないから殺してもバレないだろう、と。そしてある日、殺す理由を恋人に説明した上で、恋人を殺した、と。

すると次の日から、彼女を殺した自分と今居る自分とが別の存在だと感じるようになった、と。だが、これはたんに、自分がしでかした重大な過ちを認めたくないという感情からくる、解離の一種と解釈できるだろう。

さらに、警察に殺人容疑でつかまったもう一人の(正規の)方の恋人が、自分が女性を殺したと認め、現在も服役しているという。ひょっとしたら、そいつはぼくとよく似た男なのではないかと思う、と。ここで事態はやや複雑になってくる。たしかに自分が殺したはずなのに、別人(もう一方の恋人)が殺したと認めている。本当なら刑務所の中にいるのは自分の方であるはずなのに、そこには別人がいる。自分のいるべき「位置」が入れ替わってしまっている。

だが、巴山祐樹の話は、韓英恵の話を引き出すその前段のようなものに過ぎない。

韓英恵の話。まず、直接的な「わたしの入れ替わり」とは関係ない話。子供の頃、家の庭で遊んでいるとき、ふと、二階の窓から母親がとても怖い顔をしてこちらを見ているのに気づいた。目が合ってもその怖い顔のままだった。怖くなって部屋の中に逃げた。すると、しばらくして母親が買い物から帰ってきた。

二階の怖い顔の母親(上から降ってくる視線)と、おそらく怖くない、帰ってくる母親。母親がふたつに分離している。あるいは、時空の関節が外れている。だが、この話だけだと、母親の分裂もまた、(やさしい母と怖い母を分離しておきたいという願望による)解離の別のバージョンだと解釈できてしまう。

これまでの経緯を踏まえた上で本題。韓英恵は子供の頃、森で行方不明になった。三ヶ月後に同じ場所で見つかるのだが、彼女はその時のことを何も憶えていない。その後、彼女は耳元で誰かがささやいているような声を聞くようになる。その声はこう言う、「おまえはゆきこじゃない 本物のゆきこはすり替えられた」。

この話そのものは特に珍しいものではない。ただちに、モーリス・センダックの『Changelings』や、そこから想を得た大江健三郎の『取り替え子』、あるいはイーストウッドの映画などが思い浮かぶ。ただし、たとえばセンダックの『Changelings』の場合、取り替えられたのは「妹」であり、その「姉」が「本物の妹」を取り返しに行く(視点は姉にある)。イーストウッドの映画でも、子供が取り替えられたと感じている「母」の方に視点がある。だがここで「取り替えられた」のは自分であり、つまり「このわたしはわたしではない(わたしの知らない間にわたし自身が取り替えられてしまっていた)」ということが問題になっている。あるいは「このわたしはわたしではなくわたしの偽物であったということを後から知る」となる。

(ただし、大江健三郎の小説には、これと同様の問題-感触が常にあるのだが。)

(昔、産院で取り違えられた二人が、成長したのちに、その取り違えの事実を知らされるという物語がわりとよくあった。感覚的には近い話だが、これはたんに自分の出自-根拠が取り換えられたということで、「わたしの存在」そのものが取り換えられたというわけではない。)

「わたし→行方不明→わたし」という連続性が崩れて、「わたし(1)→行方不明→わたし(2)」となり、いま、ここにいる「このわたし(わたし(2))」は、行方不明の前にいた「わたし(1)」と別人であった(かもしれない)ということになる。この感触はむしろ、センダックよりもアブダクションの物語に近い。自分が知らない間に宇宙人に拉致されて、妙なチップを体内に埋め込まれていたのだということを、後から思い出す。どちらも重要なのは、「知らない間に」と「後から思い出す(知らされる)」ということだ。「わたし(1)」と「わたし(2)」の間には不連続性があり、しかし意識のレベルでそれは連続していて、不連続性は隠され、それが事後的に知らされる。さらに、不連続性は、能動的探求によって発見されるのではなく、強制的に告げられる(誰かの声が耳元でささやくように思い出させられる)。不連続性が、意識や能動性とは別の通路からやってくる。

ただし、アブダクションよりもずっと「このわたしはわたしではなかった」の方が不連続性のショックが強いだろう。「このわたし」が「(過去の)わたし」ではなかったということは、たんに、いまここにいる「このわたし」が記憶の根拠や自身の来歴を喪失するということだけを意味するのではない。「このわたし」が「わたし」という形をして存在しているということの根拠を大きく揺るがせてしまうことのように思われる。「このわたし」は実は「わたし」ではなく「わたしの偽物だった」。

(「攻殻機動隊GHOSTINTHESHELL」で、本当は独身なのに、娘の親権をかけて別れた妻と係争中だという偽の記憶をかまされた男が、その記憶が偽のものだった---目に入れても痛くないほどかわいい娘など実在しなかった---と知らされた後に感じるのは、失望や悲しみだけではなく、「わたし」が構成している現実への懐疑であり、それはつまり、現実を構成するものとしての「わたし」という形式への懐疑ではないか。)

「わたし」という語をいくつか異なる意味へと分節してみる。すべての人が自分のことをわたしとして構成しているという、一般的な「わたしという形式」。いま、ここ、これ、という認識の基準点を出現させている「このわたし」。昨日のわたしと今のわたしと明日のわたしのが、連続的で排他的であることを成立させている「わたしの同一性」。《「このわたし」は実は「わたし」ではなく「わたしの偽物だった」》によって揺るがされるのは、一見「わたしの同一性」だけのようにも思える。だが、複数の「わたし」が一つの「わたし」に合流してしまっていることで「わたしの同一性(排他性)」が破れることにより、「わたし」が一(排他的)であることによって成り立っている、今、ここ、これ、の成立も危うくなるように思う。「わたし」が排他的な一つの流れであることが揺らぐと、今、ここ、これ、が一つの位置であり、いま、ここ、として立ち上がっている「このわたし」が一つであることもまた、揺らいでくる。それは、一般的な「わたしという形式」が揺らぐということだろう。

「このわたし」は実は「わたし」ではなく「わたしの偽物だった」。このような感触に触れることにはとても強い恐怖が伴う。それは、非常にやばいところで「狂気」に触れており、自分も「狂気」に陥ってしまいそうになるという恐怖だろう。だが同時に、多くの人が、多少はこの感覚をリアルなものとして理解するからこそ、フィクションが成り立つのではないかとも思う。そして、ぼくの知る限りでは、作品からこの感触を特に強く発している現代日本の作家が、高橋洋大江健三郎だ。