2020-12-26

●「新人小説月評」をずってやっていると、短い字数のなかにどれだけ言いたいことを詰め込めるのか、ということを常に考えることになる。その前に、かなり長く新聞で美術評をやっていたこともあり、短い字数で、なんとなくふわっとしたことを言うのではなく、何か意味のあることを詰め込む(内容のあることをできるだけ明確に言う)にはどうすればいいのか、ということを長く考えてきた。

新聞の美術評をやりはじめた頃は、一度長く書いて、そこから、必要最低限の論旨だけを拾って、それ以外のところを切り落としていく、というやり方をしていたのだけど、段々、最初に書いている段階から、切るべきところが分かってきて、書いたそばから、書いている文をどんどん削って短くしていくようになり、さらに、書く前から、別にここはなくてもいいと分かるようになって、はじめから極端に切り詰めた表現になって、後から読み返して、ここはいくらなんでも説明不足かも(あるいは、あまりに無愛想かも)と思って、むしろ「遊び」部分を書き足す感じになっていく。

そういうことをつづけていると、文の内部の論理構造、文と文との論理構造、文章全体の論理構造を、はじめからはっきりと意識していくようになって、自然言語で書く文章が、どんどん数式のようなものに近づいていく。文を書くというより、論理をどのように組み立てるがということをまず考えて、組まれた論理を、最低限の言葉数(というか、文字数)で表現するにはどうしたらいいのか、と考えて言葉にする感じになっていく。レトリックみたいなものも、論理の一部として意識するようになる。

これはこれで、すごく「鍛えられる」感じなのだけど、これをやりすぎると、では、自然言語で書く意味はどこにあるのか、という感じになってしまう。そもそも、自然言語は論理とそんなに相性がよくない。おそらく、自然言語は鳥のさえずりや猿の威嚇する奇声の延長にあり、人類はそれとは別に「論理」を発明(発見?)したと思われる。論理を自然言語で記述するには限界があるし(だからこそ、論理式や数式が発明された)、また、論理的には書けないことまで含むことを書く力があるからこそ、自然言語に意味があると思われる。

美術評の担当も終わり、「新人小説月評」も終わったので、これからはもう少し、自然言語の冗長性を意識して書くことを考えたい。論理を放棄するのでは勿論ないのだが、論理では、図と地で言えば「図」の部分しか表現(あるいは解析)できないので、地も含まれた図としての自然言語を考えて、書くことをしたいと思う。