2021-01-13

●引用、メモ。討議「哲学とは何か、そして現実性とは」(入不二基義上野修、近藤和敬)「現代思想」2021年1月号より。これは面白かった。

近藤和敬の発言より。

《何かが起こる現実という側面に関してほとんど何も言えないというのは、私も強く共感するところです。擬製的創造では、「現にそうであるがゆえにもともとそうであったし、これからもそうであろう〈ことになる〉」というとき、そこからは「これからそうなる」ということは言えない。例えば現に泳げないがゆえに、かつても泳げなかったし、これからも泳げないであろうという〈ことになる〉とは言うことができますが、次に泳ごうとして泳げたときそのあいだに何があったかということに関しては私の図式だと何も言えません。それはなぜかというと、私がやっていることは私がやっているかに見えて、実のところそうではないからです。私とその他の諸様態が原因として含みつつかつ様態として含まれるところの実体が内在的原因となって私とその他の諸様態の中でそれを実現させている。だから現に何が起こるのかということに関しては常に、何が起こっても驚かなければならないし、何が起こっても驚いてはならないということになります。そこに絶対的なギャップがあります。われわれは単に何かをさせられているだけであるにもかかわらず、何かをしようとしてしまう。なぜなら、われわれは自分たちの存在に固執するにもかかわらず、自分たちの存在を自分たちで担保できないからです。このギャップから創造が入り込むというのが私の理解です。だから単に主体的な創造でもないし、同時に神による創造でもないという意味で「擬製的創造」という言葉を作りました。》

上野修の発言より。

《たしかにスピノザの言う無限知性というものを考えると、これは完全に実在と一致した知性です。スピノザの神=自然は「在ることのすべて」、つまり外がない絶対ドメインそのもので、事物を生み出すことと事物の観念を生み出すことが一つになっている。ですから神はあるかもしれない未来、ありえたかもしれない過去とは無関係です。この現実はずっと今ですよね。そういう絶対的な今として神は存在していて、そのつど知ると同時に何かをしてしまっている。それがすべてだという在る主のウルトラ現在主義の実在論です。

ところがスピノザはまさにそのことを、幾何学的論証スタイルで証明的に構成してみせる。あれは何か原理があってそれを展開しているわけではなく、とりあえず、いきなり実体や様態などの定義といくつかの公理から始める。彼の言葉でいえば「うまくいけばいい」というわけです。証明がうまくいくということが、まさに無限知性の一部が何らかの仕方で何かを遂行していることになる。だから何の根拠もなしに急に証明をしだすのは一見反実在論のようだけれども、そうすることで初めて「向こうから」出発するという話ができるようになっています。つまり絶対的ドメインの証明が成功したときに、近藤さんのようにいうならまさにそうなっているということによって、ずっとそうだったしこれからもそうだということになる。そしてそれが、われわれ自身が実在する知性の一部だということの実体験にもなるというのですね。スピノザはいきなり向こうからやってくるのです。》