●『デッド・ドント・ダイ』(ジム・ジャームッシュ)をU-NEXTで観た。うーん、これは厳しい。ゾンビをネタにしたライトなコメディかと思っていたが違った。救いがなく、先への見通しがない。特に、今のような状況で観るのはキツい。ラスト近辺はほとんど『発狂する唇』か(高橋洋の)『ソドムの市』みたいだった。
(この文章は最後の段落に重要なネタバレがあります。)
前半はすごく楽しかった。アメリカの田舎町に住むクセの強い人たちを、ただ淡々と描写するだけでこんなにも面白いのか、と。ジム・ジャームッシュはもう七十歳に近いはずなのだが、描写のキレが鈍ることがない。老人たちも、中年の人も、若者も、子供たちも、どの世代の描写も等しくビビッドで魅力的であることが特にすばらしいと思った。全ての登場人物が面白い。まるでジム・ジャームッシュ版「ツインピークス」みたいだ、とも思った(もし、ゾンビが出てこなかったら、あるいは、もっと少なくしか出てこなかったら、どんなに楽しく観られただろうか、と)。
だが、後半になるに従い、徐々に深刻な要素が増してくる。ジム・ジャームッシュが、自分がつくった素晴らしい世界(前半)を、自ら破壊しに行っている(後半)ようにみえて痛々しかった(前半に、「世界は完璧だ、細部を味わえ」というセリフを言った人物も、後半にはゾンビに呑み込まれる)。
たとえば、この映画のゾンビたちを、去年、コロナの感染拡大でニューヨークが遺体で溢れてしまった様を予見したものだと言うこともできるし、現在もまだ収束のめどがたっていないコロナ禍を予見したとみることもできる。あるいはそうではなく、陰謀論に呑み込まれていく人たちや、合衆国議会議事堂を襲撃した暴徒たちを予見したと解釈することもできる。このような解釈は極めて安易だが、しかし今、この状況でこの映画を観て、現状とこの映画の後半の展開との苦々しいシンクロを感じないでいることは難しい(予言的であるからこの作品が素晴らしいとは言えない、ただただ憂鬱にシンクロするばかり)。また、ゾンビ化したとはいえ、かつて親しかった人たちの首を躊躇なく切ったり撃ったりすることを強いられる---そうしなければゾンビたちの群れに呑み込まれて自分もゾンビ化してしまう---登場人物たちを、現在の我々がまさに、かつて親しんでいたり尊敬していたりした人たちが陰謀論やネガティブな思想に墜ちていく様を観ることを強いられている現状の、痛々しい反映としてみないことは難しい。
(小さな街が舞台であるため、ゾンビたちは匿名の死者たちではなく、ごく親しい、見知った死者たちである。親しい者が異様なゾンビと化してしいるところを見ることと、かつて親しかった者たちの首を自分の手で切り落とさなければならないことという、二重の苦痛が人物たちに課せられる。そして、二重の苦痛を負ったとしても、その先に勝ち目があるわけではない。)
実際、この映画がつくられた2019年に、トランプのアメリカに住んでいたジム・ジャームッシュには、そのような未来へと同調する気分---世界が抗いがたく破滅に向かって動いているという気分---が強くあったのではないかと想像する。この映画の後半においては、その閉塞的で厭世的な「気分」が、(ユーモアやアイロニーや的確な描写に加工されるより前の)「抑制を欠いて露わにされる苛立ち」のような、生な形で出てしまっているように、ぼくには感じられた。こんなにギスギスした、感じの悪いジム・ジャームッシュの映画が他にあるだろうか。それも仕方ないくらいの状況に、2019年のアメリカはあったのかもしれないと、映画を観ながら感じた。
このような閉塞(ゾンビ化)から逃れるには、ティルダ・スウィントンがそうしたように、UFOに乗って地球の外へ---現実の外へ---立ち去るか、あるいはトム・ウェイツがしているように、森の奥で人との関係の一切を絶って隠遁するかくらいしか、やり方が示されない(解決策も希望も無く、ただ逃避しかない)。少年院から逃げ出した子供たちの先行きがまったく示されないまま、ただ途切れる(希望も、絶望も、どちらも仄めかされさえもしない)ところにも、強い行き詰まり感が表現されている。