2021-02-15

ポン・ジュノの『パラサイト』をようやく観た(Netflixで)。圧倒的な作品である『母なる証明』などにくらべるとやや単純過ぎるきらいがあると思ったが、エンターテーメントとして成功するためにはこのくらいシンプルである必要があるのかもしれない。

半地下ならぬ「地下」が出てくることと、ラストで、消えてしまった父がその「地下」に存在することが分かるというところに、ポン・ジュノらしい感じがあらわれていて、そこはよかった。

映画の中盤で、主人の家族が留守になった家でパラサイトする家族たちが好き勝手に振る舞っているが、外では雨が強く降ってきているという場面で、ここで当然、キャンプを中断にして返ってくる主人の家族と鉢合わせするという展開になるだろうと読めてしまって、前半の展開でも、お金持ちの家族があまりに簡単にだまされてしまうことに不満を感じていたことも相まって、展開が平板すぎると感じてしまうのだが、そこでふいをつくように「地下」があらわれて、「おおーっ」と一気に気持ちが高まったところで本格的なドタバタ展開になる。このドタバタとその後の洪水の場面の充実により、前半のスムーズすぎる展開がある種の「ならし」であることが納得される。

パラサイトから階級(上下関係)の反転へ至るという展開だけではありきたりだか、その反転から、さらにその下層があらわれて再反転(追反転)し、その2重の反転の混乱が作品の盛り上がりを生むのだが、その混乱が「主人の帰宅」によって急速に回収されるなかで、最初にあった「パラサイトからの反転」の夢が砂上の楼閣に過ぎないことが強く意識され、(洪水と水没も相まって)もともとあった階級差の意識が以前よりもさらに強化されるという結末に至る。

とはいえ、そこから翌日の誕生日パーティーでの惨劇へ至るという展開は、想定内というか、ちょっとありきたりであるようにも感じてしまう。地下、半地下、地上という階級差が調停されることはなく、その関係がなんらかの形で破綻を迎えざるを得ないのは分かるとしても、その破綻が分かりやすい惨劇の形をとるのではなく、なにかもう一工夫あってもよかったのではないかと感じた。

ここで、地下、半地下、地上と書いたが、この映画で三つの階層は必ずしも空間的な階層構造にあるのではない、という点も重要だと思われる。半地下と地上との階級差は、空間的な上下階層というより、むしろ生活感や湿り気、臭いの違いとして形象化されていた。地上の父は半地下の父に対して、威圧的であったり差別的であったりすることはない。少なくとも意識の上では対等に扱い、相手の仕事ぶりを正当に評価している。しかしそれでも、乾いた家に住む地上の父にとって、その湿った「臭い」だけはどうしても受け入れられない(半地下の父が地上の父を許せないと感じたのも、その「臭い」に対する反応だろう)。

(半地下の「低さ」は、豪邸との対比によってよりも、水=雨という媒介によって強調される。)

そして、半地下と地下とを隔てているのは、ポン・ジュノ作品に特有の、幅が狭くて分岐路のない前後に細長い空間だ(『ほえる犬は噛まない』の団地の廊下や団地前の坂道、『殺人の追憶』の畑のなかのあぜ道やトンネル、地下にある捜査室へと通じる階段、『グエムル』のソン・ガンホが監禁される米軍施設、等々)。地上とシェルターとを分けているのは、高低差というよりは間に媒介を挟んだ距離であり、シェルターは下というより細長い空間の先としての「奥」にある。地上と半地下との階層の反転は、開けた空間における「策略」によって生じるが、半地下と地下との階層の反転は、この「狭くて細長い空間」における闘争(アクション)を通じて行われる。そして、後者こそがポン・ジュノ的だと思う。

地下としてのシェルター空間は、階層における最下層ではなく、普段は目に見えない奥であり、潜在的な次元だと言える。しかしそこは、最上層とモールス信号によって直結してもいる。地下の声を聴き、地下の存在と出会ってしまうのは、金持ち家族のなかでも最上層にいる、わがまま放題に甘やかされた息子である。彼は、地上では好き放題に振る舞うことが許されているが、同時に、地下の存在に常に脅かされている(トラウマをもつ)者でもある。

事件を起こした半地下の父は、地下へと転落(潜在)する。そして半地下の息子はそれを知り、(ほとんど可能とは思えない)父との再会を思う。この終わり方はとてもポン・ジュノ的で、『グエムル』のラスト、食卓を囲む家族のなかに死んだ娘の幽霊が混じっている場面を思い出す。半地下の息子は、「お金持ちになる」というほとんど可能性のない望みをもつのではなく、シェルター=冥界に居るという意味で「死んでいるに等しい父と再会する」という、ほとんど可能性のない望みをもつのだ。しかし、この二つの望みが重なってしまっているという皮肉。