2021-02-23

●『盆石の池』(関田育子)について、もう少しだけ。

映画を撮るという発想だとどうしても、ロケであってもセットを組む場合であっても、まず三次元の空間があって、それに対して、どの位置にカメラを置き、俳優を配置するか、という発想になると思う(鈴木清順はそうではないかもしれないが)。しかし、演劇の場合、舞台という抽象的な空間に、演技を通した見立てによって空間がたちあがることになる。ある空間がまずあって、その中で演技するのではなく、演技することによって空間を立ち上げるということが可能だ。

とはいえ演劇の場合、観客との関係によって、空間を半分しか使えない。観客の視線は一方を向いているから、180度のひろがりのなかで演技(演技によって立ち上がる空間)を捉えることになる。舞台と客席との関係を変えて、観客が輪になって舞台を取り囲み、その真ん中で俳優が演技するとしても、個々の観客の視線は前しか向いていないので、一方向であることは変わらない。観客が透明人間になって、舞台の上を自由に移動しながら俳優の演技を観る、という場合も想定できるが、この場合では今度は、見立てられた空間よりも、現実の三次元空間という規定が強く出ることになるだろう(サッカーゲームのグランド上の視点のようになる)。

『盆石の池』では、これらのどの場合とも違うかたちで時空をつくることができている。ほぼホワイトキューブと言ってよいだろう抽象的な空間に、演技とカメラとの関係によって(見立てられた)空間が立ち上げられる。カメラは演劇の観客とは違って、空間の中で自由に位置や向きや対象との距離を変えることができる。とはいえ、三次元空間のなかでのカメラの位置は絶対的ではない。観客は、実際の三次元空間のなかでカメラが占めた位置に立つのではなく、たんに、その位置から撮られた(平面化された)映像を観るだけである。カメラは、その撮り方によって、三次元空間のなかでの自らの位置を明らかにすることも出来るし、曖昧にすることもできる。

(VRの360度カメラや180度カメラを使うと、三次元という現実的、物理的な空間に強く規定されることになるが、スクリーンに映し出された平面化された映像のモンタージュであることで、現実空間の規定から逃れることができる。)

観客が観るのは、現実の三次元空間のなかでカメラの位置から観た光景ではなく、カメラと俳優の関係によって生み出された見立てられた空間・時間であり、カットとカットの関係(モンタージュ)によって生み出された非現実(非連続)的な空間・時間である。つまり、現実の三次元空間に規定されない抽象的な空間であり、現実の時間に規定されない操作・編集された時間である。

ホワイトキューブのような空間と、カメラと俳優という道具立てだけで、現実的・物理的な空間と時間という束縛からの自由度がとても高い、抽象度の高い空間を、ワンカットごとに新に生成させ、自由度の高いカットとカットをモンタージュして、さらに抽象度の髙い時空を創り出すことができる。やはりこれはすごい発明だと思う。