2021-03-09

●『猫がこなくなった』(保坂和志)に収録されている「ある講演原稿」と「秋刀魚の味と猫算」を読んでいると、自分の昔のことがいろいろ思い出されて、ぜんぜん先にすすめなくなる。「ある講演原稿」では子供の頃のことを、「秋刀魚の味と猫算」では受験生の時のことを思い出す。

●小学校に上がるか上がらないかくらいの頃(70年代のはじめ頃)は、世間というか近所の空気は今とはまったく異なるものだった。「近道」とか言って、平気で他人の庭や敷地を通り抜けていたし、他人の家の塀に上って遊んだりもしていた。希に怒られることはあっても特に気にしなかったし、子供に対してはそのようなことを許容する空気が共有されていたと思う(他人の庭の柿の木の柿を取って食べたりしたらさすがに怒られたが)。また、学校の同級生と遊ぶのではなく、下は小学校に上がる前くらいの子から、上は中学生くらいの子までの、近所の子供たちの集団があって、学校から帰ってから遊ぶのはその集団とだった。小学1年からみたら大人のように見える中学生も一緒に遊んだ。

とはいえ、そのような「空気」は急速に変わっていった。小学校1、2年生の頃はそんな感じだったが、5、6年生くらいになるとぜんぜん違っていた。「近道」はしなくなるし、学校から帰っても同じクラスの友達と遊ぶようになった。近所の子供たちのコミュニティはなくなっていた。空き地で遊ぶということもなくなった。空き地といっても誰かの所有地であり、そのような土地で子供たちが勝手に集まって騒ぐことを当然のように許容する感じではなくなっていたと思う。

それには大規模な人口流入という理由もあったと思う。ぼくの通っていた小学校は、通っていた6年の間に4つに分裂した。つまり学校3つ分も生徒が増えたことになる。入学した頃にはまわりは田んぼと畑ばかりで、なにものでもない「空き地」もかなりあったが、そこに次々と家が建てられ、団地もできた。中学生の時には、1学年が15クラスくらいあって、中学1年の一年間を、学校の敷地の外に建てられたプレハブ校舎群で過ごした(プレハブ校舎は小学校にもあったが、さすがに敷地内だった)。「先輩」からの抑圧のない自由な世界で、それはそれで楽しかったが。教師は、教員免許さえあれば誰でもいいという感じてかき集められたのだと思うが、とても質が低かった(問題も多く起こった)。

小学校の低学年の頃だったと思う。河原が主な遊び場の一つだった。実家のすぐ近くには川が二本流れているが、それは数百メートル先で合流している。その合流地点に至る岬のような部分は、かなり広い面積が、人の背丈くらいある雑草で覆われ、荒れたまま放置されていた。川沿いの舗装された道はそこを迂回して曲がっていた。近所には、人の背丈くらいの雑草に覆われて放置された空き地はほかにもあって、そういうところに一人で入り込んで、外から遮断された秘密基地的な感覚を味わうのが好きだった。ある日、川の合流する岬状の場所に雑草を踏み倒しながら入っていった。するとすぐに、既に草が踏み倒された細い道のようなものがあるのを発見し、自分より前にここに踏み込んだ者がいたのだと少しがっかりした。しばらく進むと自転車が一台倒されていて、その先が急に開けていた。草がきれいに刈られ土が露出したその開けた場所には、4、5軒の掘っ建て小屋があり、小屋に囲まれた小さな共有スペースのような場所があり、小さい畑があり、釜戸のようなものがしつらえてあった。確か、人は一人もいなかったと思う。その時ぼくは、自分の身近な場所で現実の幕が破れて、まったく未知の異世界が出現したかのようなショックを感じた。この、唐突に異世界につながってしまったという感覚は、その後の自分のこころのありように大きな影響を与えたと思う。

もちろん、後から考えればそこには謎もないし異世界もない。路上生活を余儀なくされた人が、河原の人目を遮断できる場所で何人かでコミュニティをつくって生活するということは現在でもあるだろうし、きわめて現実的で社会的なことがらだ。だが、無知な子供だったぼくはそこにユートピアのにおいのようなものさえ感じた。自分が住んでいるのとはまったく違う世界がごく身近にあるということに衝撃を受けた。

●1989年には受験生で、しかも三浪していた。ぼくは大概ぼんやりした人間だが、若い頃は今より輪をかけてさらにぼんやりしていたと思う。大学受験というものの重要さや大変さをまったくわかっていなくて、ただなんとなくそのうちに入れるだろうくらいに思っていた(当時の美大受験生は二浪、三浪は普通だった)。だがさすがに三浪になって尻に火がつき、今年ダメだったらあきらめるしかないと必死になっていた。だから自分のことで精一杯で、88年の秋に昭和天皇が体調を崩し、89年の一月に崩御するという、昭和が終わり新たな元号がはじまるという時の世の中の空気というものを感じている余裕はなかった。

この時期はまさに受験の追い込みで、毎日朝早くから終電ぎりぎりまで予備校のアトリエでデッサンか油絵を描いていた。前年の秋くらいから三月に芸大の試験が終わるまでの数ヶ月の間の緊張と高揚は、自分が今まで生きているなかでも特別の感じで、それは決して嫌なものではなかった。

今がどうなのかまったく知らないが、芸大の試験はけっこう大変で、一次試験に三日かかり、二次試験に二日かかった。一次試験では、まずデッサン1を1日(確か6時間だったと思うが、3時間だったかもしれない)かけて描き、デッサン2を2日(確か6+3時間)かけて描く。この2枚のデッサンで受験生は十分の一くらいに絞られて、二次試験では油絵を2日(確か6+4時間だったと思う)かけて描く。一次試験→一次合格発表→二時試験→合格発表と、印象として試験はほぼ三月いっぱいかかる感じで、最終的に合否が決まる頃には三月も末になっていたと思う。すっかり春になっていた。

結局、三浪(つまり四回目の受験)でも芸大には受からなかったし、それはとても残念なことだが、受験前のこの高揚した感じはよいものとして残った(2月のうちに合格していた母校となった大学に入った)。だからぼくにとって、昭和の終わりから平成の始まりという切れ目はなくて、この時期は「よい感じの緊張と高揚」の感覚が強く残っている(具体的な記憶としては、終電近くの横浜駅のホームに何人かの予備校の友人と立っているときの疲労と高揚と冬の空気の感じとかが残っている)。

●「秋刀魚の味と猫算」には次のような記述がある。昭和天皇崩御の後で昭和の日本映画を流しつづけた東京12チャンネルで放送された『秋刀魚の味』の録画によってはじめて小津安二郎の映画を観た、と。

《その夜、観るのははじめてだったが出会ったわけではなかった。おもに蓮實重彦四方田犬彦の評論を通じて小津映画のことはよく知っていた。はじめて観た『秋刀魚の味』は評論を通じて知っていたとおりだった。》

ここに当時の感じがすごくあらわれていると思った。ぼくが小津をはじめて観たのは一浪の時(86年くらい)に銀座の並木座でだったと思うが、その前に『監督 小津安二郎』(蓮實重彦)を読んでいた。というか、この本がおもしろかったから小津に興味をもったのだし、だからどうしても「答え合わせ」のような観方になってしまった(とはいえ、今でも小津は好きである一方、本の内容はおおかた忘れている)。何が言いたいのかというと、当時はそのくらい圧倒的に「批評」が強かったということ。特に、映画と小説において、批評が実作にくらべ圧倒的優位にあった。現在では批評があまりに弱すぎると思うが、当時の「批評があまりに強すぎる」状況も健康的ではなかったと思う。そして90年代の保坂さんはまさにそのような状況と闘っていた作家だろうと思う。

《私は毎朝『秋刀魚の味』を十五分刻みで観る生活を一年くらいかもう少し送った。小津安二郎のことは事前にたくさん知っていたが、そういう知り方で面白いと思ったとしても、二、三回も観ればそれ以上観なかっただろう、毎朝観るのは事前の知識と別にずっと面白かったからだ。》