2021-03-14

●引用、メモ。『現実界に向かって ジャック=アラン・ミレール入門』(ニコラ・フルリー 松本卓也・訳)、第一章「哲学から精神分析へ」より

ラカンの論理学化。

精神分析にとって、真理は象徴と事実のあいだの一致とは関係がなく、真理は単に分節化の効果である、という点が本質的である。精神分析は患者のディスクールとしか関わらないのであって、鏡像理論の意味での真理とは何の関係もない。患者の言うことが実際に生じた事実を再現しているかどうかは重要ではないのである。初期フロイトは、分析のなかで患者によって語られる外傷を実際に生じたものと考えていたことが知られている。しかし後には、そうしたものはすべて幻想的なものであるということに彼は気がついた。それゆえ、精神分析家にとって、真理はシニフィアンの分節化の問題である。真理は患者のディスクールのうちにある固有の指示対象であり、治療の進行に応じて世界の事実とは独立に存在しうる。》

《(…)分析のなかでは、結果が原因に比例するような古典的な因果性は決して問題とならない。ほんの些細な原因が途方もない結果を生み出すこともしばしばである。分析における因果性は非線形的なものであり、それは構造論的なものである。その因果性においては、世界に対する私たちの関係を再配列するような移動が起こる。ほとんど知覚できないようなきっかけから生み出された真理の効果が、実際に主体の人生を大混乱に陥れることもある。そうした結果は、それを引きこした因果の連鎖を辿ることもできなかったとしても、たしかに現れることがある。最初の原因はほとんど無である。ときにそれは、分析家が発するひとつの語であったりする。》

《一五パズルと呼ばれるゲームのことを、誰もが知っているであろう。一六個の区画にわけられた枠のなかにも、小さな一五枚の駒が番号を振られて割り当てられており、一六個の区画のうちの一つには駒が欠けている。その駒をひとつずつずらして、いろいろな方向へと位置を変え、順序通りに並べることがこのゲームの目的である。私たちは、このゲームから何を学べるだろうか。ゲームを決定づけるのは、一五枚の駒それ自体ではない。正しい順序へと最終的に並べられることでもない。ひとつの欠如、すなわち「空白のマス目(…)」こそがゲームを決定づけているのである。》

《(…)あらゆる象徴秩序は、一貫性をたもつためにひとつの要素を締めださなければならない。この要素は、構造のなかに組み入れられながらも、構造を不完全にしてしまう。構造はそれ自体において閉じられず、つねに定員外の剰余を孕らんでおり、この剰余はは構造の外に残りながらも構造に属している。》

《(…)主体は構造に内包され、かつ同時に構造から除外される要素でありシニフィアンの戯れを可能にする「空白のマス目」である。この主体は、シニフィアンが相互に結び付き、それぞれが置き換えられ、複雑な組み合わせの関係をずらし、揺り動かすことを可能にする。この主体は構造の内部に戯れをもたらす。このように、主体は「内的な除外(…)」の状態にあり、主体には内部も外部もないのである。》

《(…)主体は言語の効果ではあるが、言語は鏡のような方法で主体を反射することはできず、いわば、主体を含むことができない。同じ考えから、主体は自分自身に属するものではないと言うこともできよう。つまり、主体は外-在(…)する(自分自身の外部に位置する)。》

●哲学から精神分析へ。

《(…)ラカンの思考を教養化しているとしてミレールを非難した人々は、〔その後の〕ミレールが六〇年代の若く熱狂的な哲学者のままでいたわけではないことを忘れている。ラカンの思考の一部を「論理学化」しようとしたのは、構造主義の「哲学者」としてのミレールである。彼はその後、哲学的ディスクールは行き詰まりでしかないと宣言し、精神分析へ転向することになる。哲学と精神分析はお互いに異質なディスクールである。それゆえ、哲学者でありながら精神分析家であることはできない。ミレールは、ひとたび精神分析ディスクールの側に移ると、ラカンには一切の教義が存在しないと語るようになる。「ラカンの理論は存在しない(…)」というのである。ラカンの一連の講義は体系をなすわけではなく、シリーズ(…)をなすのである。「ラカンの読解、それは体系を連続に置き換え、固定したものを疎通させること、得られた知識を確かめるのではなく、その代わりに前に進むことである。ラカンの読解、それは理論に対する経験の優位である」。》

構造主義を捨てることは、構造の重要性を忘れ去ることではない。構造は、人々が観察してはいるが理解されていない効果を説明するための方法である。構造は、決して理解されることのない分析的解釈が問題となるときに決定的な役割を果たす。実際には、解釈が諸々の効果を引き起こしたということを確認することしかできないのである。たがって構造は、何がある効果を引き起こしたかを理解することはできない、ということを理解させてくれるのである。これは結果が原因を、より合理的な原因をもっていないという意味ではない。構造は、「原因と理解できない結果の関係を因果性として位置づける。あたかも、構造とは理解が合理性の尺度ではないということを素雌ものであるかのようである」。この言葉から、ミレールがもはや自らを哲学者とみなしていないことが分かる。というのも、哲学とは、合理性を理解と結びつけることが際だって問題となるような場だからである。他方、精神分析は、まさに理解が問題とならない場であり、意味や意味作用に寄り添うことから離れることができなければならない場である。》

《(…)彼が精神分析のなかに見出すことになるのは、欲動と享楽である。もはや単にシニフィアンの理論だけが問われているのではなく、享楽の現実的なものとの対決が問われているのである。「哲学においては何世紀にもわたってただ一つの命令しかないとされており、それは真理を手に入れるためには享楽を犠牲にするほかない」ということである。精神分析にとって一貫してある唯一の実体は享楽であり、ミレールはもはやいかなる真理のためであっても享楽を犠牲にしないことを決意する。》

精神分析は他の何よりもそれぞれの症例の特異性(…)とうまくやっていかなければならないのであるが、反対に哲学は普遍的なものを目指す。精神分析に一貫した理論的コーパスが確かにあるとしても、優先されるのは常に臨床である。だからこの理論的コーパスは、象徴システムの再編成にしたがって文明が登場させる新しい臨床例に適合しながら、決定的に開かれたままのものでありつづけるのである。》