2021-04-03

●改めて「カタストロフ」(町屋良平)を読み返すと、昨日書いたことはあまり正確ではなかったなと思った。最初からけっこう、「鳥井」の方が語り手側としての比重がかかっている。最初の場面も、最後まで通して読めば、まあ「鳥井」の側の出来事なのだろうという感じになる。

●以下に引用する部分などまさに「小説のなかで言葉としてバドミントンを実践している」と感じられるのだが、作者は実際どれくらい(あるいは、一体どのようにして、どのようなかたちで)競技としてのバドミントンを経験しているのだろうか。

(鳥井は試合中に後背筋を傷めた。)

《部活ではその鳥井の傷めかたを過去に経験していた菅が、いつもより広く動いてカバーした。典型的な片側スポーツであるバドミントンは、競技者ならたいてい利き腕側の肩から腰にかけての故障を経験している。極力うしろに下がらず、いつもより多くを菅に委ねざるを得ない鳥井。奇妙なことに、そのほうが勝てるのだった。菅サービスのラリーでも、三本目までを処理すると菅がタタッと後衛にいく。相手方も鳥井の故障は暗黙裡に了解しているのだが、開きなおって動く菅をかえって崩せない。ふしぎな経験だった。》

《鳥井は、自分の怪我のせいでいつもよりテンポの遅いバドミントンになっている、そのせいでとれているポイントが多いことに気がついた。バドミントンでは通常前衛と後衛を臨機応変にローテーションしていきポイントを重ねていくが、後衛でも主に必要とされるクリアやスマッシュが鳥井にはとくに痛い。怪我という状況においてふたりは役割を固定せざるをえず、かえって気楽になっている。鳥井の前衛はもともと良いので、前を警戒されて後衛の菅を左右に振る作戦を相手が選択しがちだが、ラケットワークこそ雑なものの左右のフットワークは速い菅のスマッシュの打点がいつもより高く、さらにコースもキレている。きわきわのオンラインというわけでもないが、センターにボディにシャープにと自在にきまっている。これくらいのテンポのほうが菅にはいいのだろうか? どんどん蒸しあがってゆく体育館のなかで汗だくで長いラリーをこなしかながら、鳥井は怪我をしていてもスポーツをやるよろこびをかんじていた。》

(鳥井の怪我は回復した。)

《(…)鳥井が動きすぎると、やはり菅のところで失点になる。菅に気持ちよく動かせると、菅のところで得点になる。鳥井にとってはフラストレーションだった。菅のラケットタッチがもっと精密になれば、もっと動けるし、点もとれるのに。しかしほんとうはそれがこのダブルスにとってプラスに働くのかはわからない。自分の攻撃力の弱さも鳥井はわかった。それでも、怪我をしてない以上フルで動きたい。》

《鳥井がショートサービスラインを割って下がると、菅の前がぽっかり空く。前後に入れ替わるタイミングが、どうしてもワンテンポ遅れる。その遅れをつく俊敏なダブルス相手でも、そこをつけない鈍感なダブルス相手でも、おなじように最終的には敗ける。リズムの崩れが全体に及ぼす範囲を、かれら自身がよく把握していないからだ。鳥井からすると菅の戦況を把握する五感の乏しさがその原因とおもっているのだが、鳥井の怪我を経験した菅は鳥井がセオリーに拘りすぎているとおもっていて、そのせいでどうしてもワンテンポ遅れてしまうのだった。鳥井の後背筋の怪我をより「経験」しているのは菅のほうだった。鳥井は怪我明けのいま、ただ前に自分に戻りたくて怪我を忘れたいとおもっている。うつくしいフォーメーションに拘っている。どちらのイメージがただしいと判断できないなか、こういうときにスコアや勝敗は正義をふりかざしすぎてむしろノイズになる。

「やっぱり前を重めに意識してくれよ」

菅が頼むようなかたちで、鳥井に提案する。

「……」

鳥井は沈黙した。そうして結局僅差でゲームをおとした。》

(次の引用部分は、鳥井が語っていると思っていると、いつの間にか語りが菅に移っていて、そのことに登場人物=鳥井がおどろく、と読める場面。)

《(…)怪我をする前は自分がよく動けてペアが得点できればなんだって、どうだっていいとおもっていた。菅の動きに全納感がもどる。なんだか、消極性の向こう側に自分があるみたいだった。高校生のころは、ひとの生き死にすら厭わないほどの戦争状態でワンプレーに臨んでいた。積極的に選ばなきゃいけないとおもっていた。このワンポイントをとれるかとれないかは、犠牲にした時間や選択の重さいかんで決まるとおもえたし、たとえば自分やパートナーの寿命を天秤にかけてマイナス一秒をさしだす、いつでもそうするつもりでいた。でも集中するとというこは、そんな精神主義で担保されるようなものではなかった。いまでも身体的にノリにノっている、若いペアのプレーをみていると、自分たちの世界こそが世界で、つつかれたらなんだって壊してしまえるよと、自分たち以外の世界は断固として認めないよと、「そんなこと選ぶまえに」そうしてしまえるとわかるプレーがある。でも、ふつうにしていても日常は壊れるためにあるものだし、選べないからこそ選ぶまえが暴力にひたっているのだと、ほんとはわかっていた。一秒後のことをだれも選べない。その当たり前の辛さから、逃げたくなる。スポーツとはその現場に立ちつづけることだ。一秒後に故障する、そうしっていれば戦争状態を解除してシャトルを追わなければよい。身体が傷むまえの想像力を、どう扱えばいいだろう? 世界レベルで勝ちつづけるペアってけっきょくそういう戦争っぽさがないんだよね、平和なんだよ、どれだけ追い詰められても、だから冷静でいられる、序盤も終盤もおなじようにたんたんととポイントをかさねていける、これがほんとだいじ。菅はいった。鳥井はぎょっとした。》