2021-04-30

●『疾風怒濤精神分析入門』(片岡一竹)を読んでいると《ことほど左様に》という言い回しがでてくる。94年生まれだという若い筆者からこのような言葉が出てくることを意外に感じた。ぼくは、現在の人でこの言い回しを使う人を菊地成孔くらいしか知らない。グーグルで検索してみようとして「ことほど左様に」と打ったら「宇多丸」とサジェストされるので、ライムスター宇多丸も使っているのだろう。

ぼくには、この言い回しは、一昔前の、何事にも一家言あるような文化人が使うものというイメージがあり、そういう言い回しをあえて使うことに対する恥ずかしさのような感情がある(「何事にも一家言ある」という言い回しも同様で、普段なら避ける語彙をここではわざと使ってみた)。

小説などでも、饒舌に語る文体として擬古文を使う例があると思うけど、同様に、菊地成孔宇多丸のような、ラジオの人気パーソナリティーで喋りの達者なサブカル系の人が意図的に古い言い回しを使うというのは分かるところもある。古い言い回しの方が定型性が強いので即興的にリズムを作りやすい。ある定型のなかに言葉をはめ込んでいく感じで喋ることで、言葉が立て板に水のように流れると同時にリズムと抑揚ができる。講談調というのか、文語的な感じに寄せる方が喋りが上手く聞こえる。これはディスっているわけではなく個人的な感覚の問題だが、ぼくにはこれが恥ずかしい。

特にぼくは、ラジオで映画について語る時の宇多丸口調(宇多丸文体)が恥ずかしい。古い言い回しを使うというだけでなく、割と堅めの批評文や翻訳文の「堅い感じ」の形(と、堅めの語彙)をなぞってリズムをつくっている感じを恥ずかしく感じてしまう。

(恥ずかしいということは「嫌だ」ということとは違ってて、常にむずむずする居心地の悪さによって「気持ちよく乗れない」、あるいは「気持ちよく乗ろうとする時に常に湧いて出てくる躊躇がある」という感じのことだ。)

「名調子」に抵抗があるということだが、とにかくぼくは、流暢な饒舌が恥ずかしい。饒舌であっても、流暢でなければ恥ずかしくない。たとえば吉田豪は、語りを定型に当てはめることもないし、流暢になることもない感じがする。

(うーん。ここで書かれていることは上手く繋がっていないかも。昔の、何事にも一家言あるような文化人の口調をあえて使う---語彙のレベルで継承する仕草をみせる---ことの恥ずかしさと、流暢な文語的な語り口調---名調子---の恥ずかしさとは、別の問題として考えるべきか。)

(流暢な文語的語り口調に恥ずかしさを感じるのは、歴史的に、近代文学、近代芸術以降の感じ方で、そして今や、それこそが「古い」と言うべきものなのかもしれないのだが。とはいえ、伝統的な語りものそのもの---「講談調」ではなく「講談」そのものとか---に対する抵抗はない。)

(なぜ、映画評の流暢な語りが恥ずかしくて、ラップは恥ずかしくないのか。この感じ方は矛盾した、恣意的なものに過ぎないのではないか。とりあえず、ここには散文と詩の---機能や目的の---違いがあると言えるのだが、この違いもまた、近代以降の分類でしかないとも言える。)

(根本的な問題は、散文か詩かということではなく、外側に既にある形に当てはめられたリズムなのか、内側からその都度あらたに生成されるリズムなのか、という違いにあるのだと思われる。勿論、こんな簡単な二分法はありえなくて、この二つは常に同時にあり、重なっているはずだが。)