2021-05-29

●中断していたが、『現実界に向かって』(ニコラ・フルリー)の続きを読んだ。第三章「ラカン的政治」。アイロニカルであることを批判するむきもあるが、アイロニカルですらあり得なくて知的であることなど出来るのか、とは思う。とはいえ、その前提は共有しつつ、そこから先をどう踏み込んで考えられるのかが問題となるのでは…、という物足りなさも感じた。また、ミレールの科学批判のなかにミレールの限界が見えてしまうような感じもある。以下、引用。

《分析家が主体に発見させようとしていることは、次のことである---主体が自らの固有の同一性だと思っているもの、つまり私が「それ」であるところのものは、彼をまさに主体として代理表象するシニフィアンに常に結びついている、ということである。たとえば、「私は医師である」や「〔私は〕叩かれる女〔である〕」という言葉は、自らを定義づける方法となりうる。これはラカン以降の精神分析が「主人のシニフィアン(…)」と呼ぶものである。このシニフィアンはある種の命令である。このシニフィアンは、他者たちや私たち自身の眼前において私たちを代理表象する。分析は患者に対して、こういった〔同一性の〕目立ちやすさがみせかけの性質をもっていることを示す。分析は、ひとは単純なシニフィアンに関わっており、そのシニフィアンは、実のところそれ自体では意味をもっておらず、ある社会の内部の理想として価値をもっているにすぎないことを示すのである。何が意味のあるものであり、何が意味の無いものであるのかをコード化するのは共同体である。(…)こうしたものはみな純粋なみせかけであり、シニフィアンに対して与えられる意味は集団的にしか決定されえない。》

《(…)私たちを代理表象するシニフィアンは、それ自体では意味をもたない。「言い換えれば、精神分析は、社会的理想をそのみせかけの性質において際立たせる。付け加えれば、現実的なもの(…)---享楽の現実界---との関係にあるみせかけの性質においてそれを際立たせるのである。精神分析の立場は享楽にこそ真なるものがある、と言う点においてシニカルである」。》

《こうして、精神分析は、主に権力が問題になるときには、〔権力の〕すべてはみせかけによって維持されているにすぎないということに主体が気付くことを可能にする。》

《しかしながら、率直に言うなら、権力がみせかけを維持するであろうこと、つまり権力の欲求〔=権力を必要とすること〕を失うことはないであろうということもまったく周知のとおりである。》

《それゆえ、精神分析家はアイロニストの場に留まり、政治的領野に介入しないように気を付けているのである。精神分析家は、みせかけが働き、みせかけが絶えずその場に留まるようにする。(…)ラカンは「騙されない者は彷徨する(…)」と述べることができた。つまり、あたかもみせかけが現実のものであるかのように振る舞わなければ、みせかけを実際のものとしなければ、ひどいことになるというのである。権力の印はすべてみせかけにほかならず、それは主人のディスクールの恣意性の上に立脚しているのだと考える者は誰であれ、もはや狂人とならざるをえない。権力のみせかけに関わるものについて、精神分析家は「それをよりよく利用するために、それなしで済ます〔=やりすごして、うまく利用する〕(…)」ようにする。》

シニフィアンシニフィエを決定する。意味作用の効果、シニフィエの生産という効果を得るためには、少なくとも二つのシニフィアンが隠喩あるいは換喩によって結合されることが必要である。語り(…)のなかでは、シニフィアンの下でシニフィエが持続的に横滑りしており、そしてシニフィエの上でシニフィアンが持続的に横滑りしている。それゆえ、隠喩と換喩はシニフィアンの主要な法則であり、その法則のなかに主体が書き込まれるのである。直接的な参照点がないがゆえに、シニフィアンシニフィエの上を止まることなく横滑りする。そのため、究極的には、ある語は固定された何かを決して指示することがない。「因習をもち、道を示すことができるある共同体がなければ、それが何を意味するのかもわからないだろう。シニフィエに同じ意味を保たせるのは因習である。私たちを安定化させ、支えることを可能にするのは、私たちの先入観である」。》