2021-06-02

●『大豆田とわ子と三人の元夫』、第八話。ずっとアンチ恋愛ドラマだったこの作品だが、ここでベタに恋愛ドラマ展開になる。これが、複数の可能性が並立するパラレルワールド的世界から、排他的な決定論的世界へと移行したということの意味なのだろう。松たか子が恋愛モードになったのは、第一話で斎藤工と出会った時以来のことだろう。恋愛モードに入るということは、排他的なモードになるということで、松田龍平が「ちょっと会えないか」と電話してきた時に、松田の様子を気にかけながらも、「二人で同じ気持ちになるだけだと思う」と言って断るところにそれが端的に表れている(たとえば、谷中敦に酷い言われ方をした時などに、松田に会いに行ってずいぶん救われたというようなことがあったにもかかわらず…)。

それと呼応して、三人が横並びになって(信号色の三色のシャツを着ていたりして)仲良くわちゃわちゃやっていた元夫たちの立ち位置も変わってくる。松田龍平は、市川実日子を亡くした傷が癒えることなく一人で徘徊することが多くなるし、一方、岡田将生は、松たか子に対して積極的に強いアプローチをかけるようになる。角田晃広の存在はドラマの前面からやや後退し、岡田の言ったことをリピートする面白おじさんみたいな役割りになっている。

(岡田と角田は、せっかく誘われているに---ハンカチにばかりこだわって---カレーを食べないし、部屋じゅう探し回るのにバルコニーを探さない、と、大事なところで外すのだ。)

ベタな恋愛ドラマ展開であるのと同時に、メタ恋愛ドラマ展開でもある。女性に慣れていないオダギリジョーに、(本当に存在するのかどうか分からない「お嬢さん」との)デートでの会話を松たか子が指南することを通じて、二人が親しくなっていくという展開はベタだが、松たか子オダギリジョーに教えた言葉を、オダギリジョー松たか子にほぼそのまま返すことで、松たか子がキュンキュンするという構図になっていて、これはつまり、自分が言って欲しいと思っていることが、そのまま相手から返ってきているのだから、自作自演に近いと言える(これは、瀧内公美角田晃広が、台本の読み合わせを通じて親しくなっていった過程---あらかじめ書かれた、自分のためにあるのではない言葉に、それを模倣するように後から「感情」がのっていくという意味で---とちょっとだけ似ているとも言える)。本当に天然なのか、完璧に演じているのか、どちらか分からないのだが、とにかく、ここでオダギリジョー松たか子の欲望を(絶妙に遅延させつつ)忠実に映す鏡のような存在になっている。不在の「お嬢さん」を媒介とすることで、オダギリジョー松たか子の欲望を引き出し、それを自分で忠実に演じる。

オダギリジョー松たか子が鏡像のような関係にあるということは、二人が共に強い「呪い」に拘束されているということからも言える。オダギリジョーは、社長からの呪いにかかっていて、松たか子は、社長の座に留まることへの呪いにかかっている。オダギリジョーは「介護」によって支配された状態(の後の虚脱状態)から、社長によって救われるのだが、それは「彼を支配するもの」が介護から社長に移動しただけということだろう。つまり、彼の人生はいまでも奪われ続けている。彼が、数学なんて生きる上では役に立たないと言う時、それは、数学を志すことが出来ず、思うようにならなかった自分の人生に対する無念さと諦観とを含んだ苦いアイロニーだととるべきだろう。

だが、オダギリジョーの呪いは、松たか子という存在によって割とあっさり解除される。

(松たか子のカレーは、オダギリジョーとの出会いによって生まれたと言えるのだから、オダギリジョーは、自分が与えたものを返されることを通じて「呪い」を解かれる、とも言える。)

では、松たか子の呪いはどうか。彼女の呪いは複合的なものだと言える。彼女が、自分でも向いていないと思う社長の座にこだわるのは、(1)市川実日子との約束、(2)社員の雇用を守るため、(3)職人たちが質の高い建築をつくっている今の「しろくまハウジング」という場を「良いもの」と考えているので、その「良い状態」を守るため、であろう。おそらく、(1)の呪いにかんしては、(「私」の)オダギリジョーとの出会いによってほぼ解消されていると考えていいのではないか。しかし、(2)と(3)にかんしては、まさに(「公」の)オダギリジョーがいるからこそ、社長の座を譲れないのだ。逆に言えば、「公」のオダギリジョーが消えてくれれば「呪い」も消えるので、こちらもオダギリジョーしだいとも言える。

松たか子が自宅へ持ち帰った仕事の合間に観て癒やされていたのは、イームズハウス(イームズの自邸)の写真だった。第三話に社長の席で観ていたザハ・ハディッドのヘイダル・アリエフ・センターとうってかわってモダニズムの有名な住宅建築。三話の時は、確か大学の図書館だったと思うけど、公共建築を若手のホープのような人が設計する話だったから公共建築の写真を観ていたのだろう。今回は、住宅を請け負う会社としてのアイデンティティが問われている局面なので(自宅のリビングでもあるし)、住宅建築の写真を観ているのだろう。それと、リビングの棚に妙な絵が立てかけてあったのだが、あれは前からあっただろうか(おじさんの顔と女性の裸が二重写しになっている、マグリットではなく赤塚不二夫風の絵)。

オダギリジョーがうっかり自分の過去を喋ってしまった「心を許しかけていた」同僚の人、(背中のカットも含めて2カット映るだけにもかかわらず強く印象に残る)絶妙に嫌な表情をしていて素晴らしいのだけど、この人どこかで観たことがある(それも一度きりではなく何度も)と思って記憶の闇に潜っていって、チェルフィッチュによく出ていた足立智充という俳優だったと思い当たった。最近観たのは『王国(あるいはその家について)』と『きみの鳥はうたえる』で、どちらの映画でも「嫌な感じ」がとても素晴しかった。

「勉強やめた」問題が言及されることはもうないのだろうか。経済的にも余裕があり、親が毒親というわけでもなく理解があって、本人も頭がいいという子供が、いきなり「勉強やめた」と言い出すということは、かなり大きなことだと思うのだが、ちょっとした反抗期みたいなものだったのだろうか。

オートチューンフェチで、男性ボーカルにオートチューンがかかっているとそれだけで「おおっ」と反応してしまうのだが、今回のエンディングはとてもよいオートチューン具合だった。

(追記。オダギリジョーはどこか、松田龍平と通じ合う感じがある。受動的で、相手の---松たか子の---欲望・要望をそのまま受け入れる。実際、二人は出会って---ぶつかって---いるし、松たか子の部屋で松田龍平だけはオダギリジョーを見ている。そして、三人の元夫は、みな眼鏡が共通してるが、オダギリと松田とは「ヒゲ」で繋がっている。)