2021-06-20

●お知らせ。VECTIONによる権力分立についてのエッセイ、第5回をアップしました。

三権分立脆弱性を修正する(Part IV):三権分立は政府の構造

https://spotlight.soy/detail?article_id=4jhzomlnq

Fixing Vulnerabilities in the Tripartite Separation of Powers (Part IV)

https://vection.medium.com/fixing-vulnerabilities-in-the-tripartite-separation-of-powers-part-iv-f30eea8ee157

●25日に、多摩美の映像文化ゼミでゲスト講義をするので、そのためのスライドをつくり始める(リモート授業)。タイトルを、「並行世界の手触り~フィクションにおける並行世界的世界観のリアリティの変化と深化」とすることにした。文学やアート作品のようなものではなく、大衆的なフィクション(主にアニメとテレビドラマ)において「並行世界」的な世界観がどのようにあらわれ、一般化していったのか、それによってフィクションは新たにどんなことを語ることができるようになったのか、についての講義になる予定。とりあげる作品は、「うる星やつら2 ビューティフルドリーマー」(1984年)から「大豆田とわ子と三人の元夫」(2021年)まで。

(「大豆田とわ子と三人の元夫」は、非SF的なフィクションにも並行世界的な世界観が波及していることの代表的な例というだけでなく、並行世界的な世界観をもつフィクションのひとつの大きな達成であり、その可能性を示すものだと思う。)

(並行世界的な世界観を人々が受け入れる素地として、物理学におけるマルチバース説の一般化があるだろうが、それだけでなく、もう一つ、1989年に出版された『探求Ⅱ』での、柄谷行人による固有名論が重要だと思っている。確定記述とは異なり、固有名は偶発性に対して開かれている---常に偶然性を孕んでしまう---というやつ。)

《単独性としての「この」は、差異を、言い換えれば、「異なるもの」を根本的に前提している。なぜなら、「この」とは、「他ならぬこの」であるから。単独性は一般性に所属しない。しかし、それは孤立した遊離したものではない。単独性は、かえって他なるものを根本的に前提し他なるものとの関係において見出されるのである。だが、単独性は言葉で語り得ないような深遠なものではない。すでに示唆したように、それは固有名のなかに出現している。たとえば、太郎と呼ばれる犬の「他ならぬこの」単独性は、まさに太郎という固有名以外にはあらわしようがないのだ。》(『探求Ⅱ』「単独性と特殊性」)

(「並行世界の手触り」というタイトルは勿論、「確率の手触り」からきているのだが、ここ数日ずっと探しているのに、「郵便的不安たち」の本がみつからない。)