2021-07-07

メルヴィルの「バートルビー」は、基本的にコメディとして書かれているように思う。バートルビーダウンタウンの不条理コントのキャラクター(トカゲのおっさん、とか)のようであるし(ぼくはどうしても、バートルビー吉田戦車の絵で思い浮かべてしまうが)、「せずにすめばありがたいのですが」(酒本雅之・訳)というセリフも、「グランドチャンピオンはね、チャンピオンを経て、チャンピオンを経て、チャンピオンを経て、チャンピオンを経られる人間だけがなれるんだよ」「問題は経つづけられるかどうかなんだよ」、「~を経て、~を経て、経て…」というようなおかしな決まり文句の反復で笑わせるコント(ダウンタウン「経て」)と同様に、読者が、お、来るぞ、来るぞ、と期待し、来たー、となって笑う、というパターンとしてあるだろう(だが、終わり方がコメディではないのだ)。中盤から終盤にかけて、たたみかけるように逸脱が大きくなってくるという展開もコントの書法(コント=短編小説という意味ではなく、コント=お笑いという意味で)だと言えるだろう。

話者とバートルビーの関係も、古い話だがコント55号坂上二郎萩本欽一の関係を思わせる。萩本欽一坂上二郎に無理難題を次々とふっかけて、坂上二郎が追い詰められて汲々としながらも難題に応えていく様の滑稽さ(飛びます、飛びます…)。バートルビーは能動的性向がゼロであることによって逆説的に萩本欽一たり得るような人物で、なにもしないことによって---坂上二郎のように気のいい(しかしどこか狂気を孕んだ)---話者を追い詰めていく。小説は、バートルビーの「なにもしなさ」を、話者による反応の滑稽さ(可能な限りの社会的な寛容さ)を通じて反転的に描くことができる。

とはいえ、バートルビーは本質的には(サディスティックな欲望によって坂上二郎を追い詰めていく)萩本欽一とは異なっており、他者を追い詰める意図はなく(そもそも他者に興味はなく)、最期まで能動性がゼロのままで、なにもしないことを貫いて、ただ静かに消えていく。このラストが「コメディでない」ことによって、全体としてコメディ化せず(コメディとして完結せず)、完結しないので全体が(笑いによって)解決されないまま宙に浮く。笑って済ませるところが、笑って済ませられなくなり、笑えなくなって、むしろ急速にすんとさせられ、余韻やひっかかりとして、バートルビーの(能動性を拒否する)存在が感触が残り続ける。

(「バートルビー」の話者は、社会的に許容し得る最大限の寛容さを表現していると思われる。しかし、バートルビーのそこには収まらない。人間の社会とは根本的に相容れない、脱去する存在だろう。)