2021-07-21

ホーソーンの代表作といえば『緋文字』だし、ホーソーンを読むというのならまずは『緋文字』を読むべきなのだろうが、「ウェイクフィールド」という短編は一種の珍品のようなものとして有名で、この短編には単純だけど人の心に強く残ることがらが書き込まれている。とても短い小説だが、次に引用する二つの部分を読めば、この小説に書かれている重要なことの八割以上は読んだことになるのではないかと思う(酒本雅之・訳)。

《問題の夫婦はロンドンに住んでいた。夫は旅に出るという口実で、なんと我が家と隣り合わせの通りの部屋を借り、妻にも友人たちにも知られぬまま、おまけにここまで身を隠さなければならぬ理由は露ほどもないのに、この部屋で二十年以上暮らした。そのあいだ彼は、我が家を毎日眺め、いまや寄るべなき身のウェイクフィールド夫人を見かけることもしばしばだった。そして夫婦の契りにかくも大きな裂け目をつけたあと、死んだことは間違いないと思われ、財産の相続もすみ名前までが人々の記憶から一掃され、妻も人生の秋に寡婦となる覚悟を遙か昔に決めてしまった頃になって、彼は、ある日の夕暮れ、わずか一日家をあけたといったそぶりで、落ちつき払って門をくぐり、死にいたるまでやさしい伴侶となりおおせた。》

《わたしが覚えているのは、この程度のあらましだけだ。それでもこのできごとは、むろん正真正銘独自なもので、前例もなければ、おそらく真似ることもできまいが、わたしには人類全体の共感に訴えるものだと思える。われわれのなかにこんな愚行を犯す者など一人もいないことは、誰しも自分自身でよく承知しているが、でも他人なら誰かがやりかねないとも感じている。少なくともわたし自身の心の眼には、このできごとは繰り返して立ち現われ、いつも不可解な思いをかきたてられながら、それでいてこの話は実話に相違ないと感じさせたり、主人公の性格を想像させたりする。どんな問題であれ、心をこれほど強く動かすかぎり、その問題について考えてみることは、時間の上手な使い方だ。》

ひとつめの引用が物語の提示であり、ふたつめの引用がそれに対する批評・考察となっていて、これだけで完結しているかのようだ。実際、これ以降、夫が過ごした二十年の具体像が断片的に示されるのだが、小説を読み進めていっても、小説的な技巧の鮮やかさ(夫が家を去る時に、玄関が閉じられるまぎわにみられる一瞬の笑顔、など)によってイメージに彩りが加えられはしても、これ以上に重要なことが付け加えられている感じではない。

おそらく、夫が失踪していた二十年という時間は、具体像を詳細に書くことによっては捉えられず、ただ空白(空隙)としてだけ示されるという性質のものなのではないだろうか。仮に失踪していた夫本人がその間の生活を告白したとしても、その告白はリアリティのないものになってしまうのではないか。だが、この小説が「空白としか表現できない二十年」を捉えられていないということはない。たとえば、次に引用するようなところはリアルだと感じられた。

《むろん真相を垣間見ることもあるにはあるが、ほんのつかのまでしかなく、相も変わらず、「近いうちに帰ってやるぞ」と言いつづけて、自分が二十年もおなじことを言ってきたとは思ってもみない。》

《その二十年間も、振り返ってみれば、ウェイクフィールドが初めに自分の不在の期限だと考えていた一週間と、大差がないと思えるのではあるまいか。彼にはこの一件が、自分の人生の主な演しものに挿入された幕間狂言にすぎないと思えるのだ。(…)残念ながら、さにあらずだ。「時間」がわれわれの十八番の愚行が終わるのを、もしも待ってくれさえするなら、われわれは一人残らず、おまけに「審判の日」まで、若いままでいるはずだ。》

ひとつめの引用は、(ちょっと古井由吉みたいな文章だが)「近いうちに帰る」という言葉の反復のなかに二十年という時間を溶かし込んでしまったかのような表現で、時間を言葉によって無理矢理圧縮することによって二十年の「中味」を空にしてしまう。だか、たんに空白が示されるのではなく、習慣=反復が長い時間を空にしてしまったのだという悪循環として空白が構成される。空白が空白のままで、空白のトーンのようなものが表現される。ふたつめの引用では、一方で一週間も二十年も大差ないというスケールの無化が実感され、だがもう一方でそのような実感は(そのような実感の内側にあるときだけの)幻に過ぎず、実感=幻から醒めれば一週間と大差ないとはいえない時間が経っているという冷たい事実が示される。このときに、「実感」にも「事実」にも同等な重さのリアリティを感じるのならば、それによって二十年の空白が「スケールの失調」という形で表現されることになる。

もう一つ、この小説で過剰なくらいに強調されるのがロンドンの雑踏や群衆だ。あたかも、ウェイクフィールドの二十年は雑踏のなかに紛れて消えてしまったかのようである。そもそも、このような物語が生まれるのには、都市や群衆、根無し草的な市民という階級などが成立していることが不可欠だろう。このような物語の深い根には「神隠し」の物語があるとは思うが、しかしここには、神隠しの都市バージョンと言って済ますことのできない、それまでにはなかったであろう新たな形の人間関係(社会的関係・婚姻関係)の反映があると思われる。そして、このような「失踪」の物語のリアリティは現在もなお古びてはいないように思われる。

(いや、ある意味では決定的に古くなっていて、今読むと多くの人は、勝手に出ていった夫を二十年後に妻がすんなり受け入れるわけないだろ、女性の側に変な期待と過剰な寛容や負荷を要求し過ぎ、と思うのだろう。いや、それは正しいのだけど、この物語の重要なところはそこではないのだけどなあ、とも思ってしまう。)

(帰還できない---受け入れてくれる妻に依存しない---ウェイクフィールドバートルビーのなかもしれない。でも、この物語では---批判はあるとしても---帰還できるというところが重要なのだとも思う。)