2021-07-23

チェーホフの「学生」は聖書に材をとった小説だ。この小説は《復活祭前の金曜日》が舞台となる。復活祭前の金曜日(聖金曜日)は、キリストが殺された日ということで、信者は肉や卵や乳製品を口にしない(あるいは食べ物を口にしない)のだという。だからこの時に主人公の学生は《堪えがたいほどひだる》いという状態にある。そのような日、昼間は春めいて気持ちのよい気候だったのに、暗くなると《あらゆるものが鳴りをひそめ》、《万物の秩序と調和を乱し、自然そのものにとっても不気味》な寒気がやってくる。まるで「その日」を再現するかのように。

そのような陰鬱な寒さのなかで、学生は《リューリクの時代にも、ヨアン雷帝の時代にも、ピョートルの時代にも、これとそっくりの風が吹いていただろうということや、彼らの時代にも、これとそっくりのひどい貧しさや飢えがあっただろう》と考える。ここで《これとそっくり》と考える時、それは復活祭前の金曜日とはおそらくあまり関係がない。今、感じている寒さやひだるさ、自分がみている風景の荒涼、そして自分の生活の貧しさと同じようなものが、別の時代にも存在し、さらに《なお千年たっても、暮らしはよくならないだろう》と思えて、学生は家に帰りたくなくなる。このような暗い気持ちのなかで、野菜畠ではたらく母と娘の二人の後家がたき火をしているところに通りかかる。

ここで、語られている今、ここで爆ぜている焚き火と、ペテロがキリストのことを「知らない」と言った「その日」に大祭司の中庭で燃えていたたき火とがつながる。「今日」が、復活祭の前の金曜であることの意味が(正確には、復活祭前の金曜日は十字架にかけられた日で、ペテロが「知らない」と言ったのはその前日だろうけど)ここでせり上がってくる(松下裕・訳)。

《野菜畠が後家さんたちのと呼ばれていたのは、それが、母と娘の二人の後家のものだからだ。焚火が爆ぜながらあかあかと燃え、すき起こされた地面を遙か遠くまで照らしていた。後家のワシリーサ---背が高く肥っていて、男物の毛皮の半外套を着た老婆がそのそばに立って、物思いに耽りながら火をみつめていた。その娘のルケーリヤ---あばた面の、おろかしげな顔つきの小柄な女が、地べたにすわりこんで鍋と匙を洗っていた。どうやら夕餉をすませたばかりのところらしかった。男たちの声が聞こえていた。このあたりの作男たちが川で馬に水を飼っているのだ。》

《「ちょうどこんなふうな寒い晩に、使徒ペテロも火にあたっていたんだろうね」と学生は両手を火にかざしながら言った。「つまり、そのときも寒かったわけだ。ああ、なんという恐ろしい夜だったことだろうね、おばあさん! なんという物悲しい、長い夜だったことだろうね! 」》

学生は、福音書に書かれたペテロのことを話す。イエスに、自分が深く嘆き悲しみ祈っているあいだ目覚めていよと言われたが、《憐れなペテロは心が疲れて、まぶたが重くて、どうしても眠りに打ち勝てなかった》ので、眠ってしまう。そしてイエスがとらえられた後、あの男はイエスと共にいたと告発され、三度も「彼を知らない」と否定してしまう。《とたんに鶏が鳴き始めたので、ペテロは遠くからイエスのほうへ目をやって、晩餐のときに主の言われた言葉に思い当たった…。はっと我に返り、中庭から出て、激しく激しく泣き出した。福音書にはこうあるね、『外に出ていたく泣けり』って。僕はいま想像するんだよ---静かな静かな、暗い暗い園、そのしんとした中で、ようやく聞き取れるほどの啜り泣き……》。ペテロは、そうしたくないのに疲れに負けて眠ってしまい、そうしたくないのに恐れに負けて裏切ってしまう。そうしたことが、ユダが裏切り、イエスが連行された「あの恐ろしい夜」のなかで起こった。イエスはそれを事前に予言したが、それでもそれは避けられなかった。

《学生はふっとため息をついて、物思いに沈んだ。ワシリーサはほほえみを浮かべたまま、いきなりしゃくり上げると、大つぶの、とめどない涙が、その頬を伝って流れた。彼女は袖で顔から火を隠した、涙を恥ずかしがるように。ルケーリヤのほうは、じっと学生の顔を見つめながら、真っ赤になって、その顔つきは、激しい痛みを堪える人のように、重苦しい、緊張したものになった。》

《学生はまたも物思いに耽った。ワシリーサがあんなふうに泣き出し、娘があんなふうにどぎまぎしたところを見ると、たったいま自分が話して聞かせた、千九百年むかしにあったことが、現在の---この二人の女に、そしてたぶん、この荒涼とした村に、彼自身に、すべての人に、なんらかのかかわりがあるのは明らかだった。老婆が泣き出したのは、彼の話しぶりが感動的だったからではなくて、ペテロが彼女に身近なものだったからだろう。彼女がペテロに起きたことに身も心も引かれたからだろう。》

学生が、自分の置かれた貧しさや飢えが過去にもあり、そして未来もなくなることはないだろうと感じて憂鬱になることと、ペテロと老婆や自分たちが《身近である》ことを実感することと、どう違うのだろうか。ペテロに起きたことは決して幸福な出来事ではない。ペテロにおける、裏切りの不可避性とそれに伴う痛みや悲しさというネガティブなものが、今、ここにいる自分たちにとっても、直に触れられるのではないかというくらいに身近にあるということは、決して喜ばしいことではないはずだ。しかし学生は、このことを最大限にポジティブな出来事として捉える。

《すると喜びが急に胸にこみ上げてきたので、彼は息をつくためにしばらく立ち止まったくらいだった。過去は、と彼は考えた。次から次へと流れ出る事件のまぎれもない連鎖によって現在と結ばれている、と。そして彼には、自分はたった今その鎖の両端を見たのだ---一方の端に触れたら、他の端が揺らいだのだ、という気がした。》

一方の端に触れたら他方の端が揺らいだ。つまり、変わることのない不幸が反復されているのを嘆くのではなく、今、ここと、千九百年前とが、一方に触れたら他方が揺らぐというように、繋がっていて敏感に反応しあうことができるという感触に、学生は歓喜している。一方に触れたら他方が揺らぐという表現は、過去との距離が近づいて触れ合うということとは違った、直接性と距離の遠さとの両方を含んだ感触を表現している(遠い感触であるからこそ新鮮である、という感じ)。ある不幸や苦しみが解消され、幸福が訪れるという形の喜びではなく、ある不幸の必然(ある生・ある痛み)と、そこから遠く離れてある別の不幸の必然(別の生・別の痛み)とが、一方に触れたら他方が揺らぐという形で、きわめて新鮮に、敏感に響きあうのだということに喜びを見いだしている。