2021-07-27

ボルヘスの「バベルの図書館」では、最初に「無限」が強調される。しかし中頃になると、蔵書には25種類の記号によって可能なすべての配列パターンが記されていて、そして《おなじ本は二冊ない》とされるので、数は膨大であるが無限ではないことになり、最初の宣言は否定される。だけど、ラストにはこの《おなじ本は二冊ない》が否定され、《図書館は無限であり周期的である》ことが主張される。25種類の記号の可能な組み合わせのすべてがある、という以外の秩序がみつからないこの図書館=宇宙において「周期的反復」という秩序があり得ることが、果てしなく広がる(無意味としか思えない記号の羅列ばかりである)本たちのなかで生まれ、その中で今にも死んでいこうとしている話者にとっての希な「希望」となる。

すべては既に本に書かれている。「わたし」が今書いているこの文章も、「わたし」の生涯も、「わたし」の生涯のすべてを弁明するテキストも、それへの批判や解釈も、いくつのも偽物の弁明のヴァリエーションも、予め図書館=宇宙のどこかにある本のなかに書かれてある。しかし、この「わたし」がそれと出会う可能性は、チンパンジーが適当にキーボードを叩いていたらシェイクスピアの作品が生まれた、という可能性と同じくらい低い。

(この図書館には、二十五の記号によって可能なあらゆるヴァリエーションが存在するが、そこに、不合理なものはなにひとつふくまれていない、と書かれているのを読んで、この宇宙に、数学的に可能なすべてのことがらが起るとは限らないが、数学的に可能でないことは一つも起らない、という言葉を思い出す。つまりこの図書館=宇宙は、われわれの「この宇宙」よりも大きく、可能なことはすべて存在するとされているのだ。)

図書館の膨大な蔵書のなかには、図書館にあるすべての本の的確な要約であるような一冊があるはずであり、それを読むことができればこの図書館=宇宙のすべてを知ることができるはずだ。しかし、それがこの「わたし」である可能性、あるいはこの「わたし」がその本を読んだ者に出会える可能性はほぼゼロだと言える。だが、たとえそれがこの「わたし」でないとしても、遠い過去(あるいは遠い未来)において、誰か一人でもその本を読む者が存在するとすれば、その者は神のような存在となり、その者によって、神とこの図書館=宇宙の存在が正当化されるだろう。「わたし」は、そのような「一人」が存在してほしいと「神」に祈る。

この小説に書かれているはこの図書館=宇宙についての考察でしかなく、それが真であるという保証はない。図書館が《永遠を越えて存在する》というのも、《記号の数は二十五である》というのも「公理」であり、その確実性を確かめることはできない。仮に、《記号の数は二十五である》という公理が成り立たなくなる実例(反証)が発見されたならば、図書館に二十五の文字で可能な配列のすべてがあるという前提も、図書館が無限に広いのならば反復という秩序があり得るという希望も、成り立たなくなってしまう。

(最後の「註」に、図書館は無用の長物であり、無限に薄い無限数のページからなる一冊の本があれば充分であるはずだ、と書かれている。この場合に宇宙は、外側へ無限に拡張するのではなく、内側に無限に折り畳まれるということになる。この場合に「わたし」は宇宙の外に存在し、無意味な記号の羅列がどこまでも広がる無限のページを果てしなくめくり続けることになるのか。無限に広がる図書館では、人による本の廃棄は限定的過ぎてほぼ意味がない行為だが、無限のページをもつ一冊の本であれば、それを廃棄することが可能になるのではないか。)

●この小説を読んでまず感じるのは、無限なのかそうでないのかにかかわらず、可能性の膨大さに対する実在する人間の小ささであり、可能性を前にすると「このわたし」がほとんど無のように感じられてしまうということでではないか。図書館の本のなかに、人にとって意味を持ちうるありとあらゆる事柄が予め書かれているとして、しかしその「人にとって意味のあるあらゆること」は、それよりもずっと膨大な無意味な順列組み合わせの広がりのなかに、あるかなしかというくらいに極めて希薄に漂っているだけだということになるだろう。仮に「人間にとって意味のあるすべて」を「神」だとすると、そのときに神は、神よりもずっと大きな無意味に取り囲まれた小さな存在となる。そして、そのことを最も強く表現しているのが、「本の廃棄」にかんするエピソードだと思う。

《他の連中は、反対に、何よりも重要なことは無用の作品を消滅させることだと信じた。彼らは六角形に侵入し、つねに偽造のものというわけではない信任状を呈示した。面倒くさそうに一冊に目をとおしただけで、すべての本棚の破棄を命じた。彼らの衛生的かつ禁欲的な熱意のせいで、何百万冊もの本の意味のない消亡が生じた。彼らの名前は呪詛の的になった。しかし、彼らの乱心によって破壊された「宝物」を惜しむ者たちは、ふたつの顕著な事実を忘れている。ひとつは、図書館はあまりにも大きく、人間の手による縮小はすべて軽微なものであるということ。いまひとつは、それぞれの本が唯一の、かけがえのないものだが、しかし、(図書館が全体的なものであるので)千の数百倍もの不完全な複写が、一字あるいはひとつのコンマの相違しかない作品がつねに存在するということ。》

●「バベルの図書館」には次のように書かれている。《観念論者たちは、六角形の部屋は絶対空間の、少なくとも空間についてのわれわれの直観の必然的形式である。三角形もしくは五角形は考えられないという》。一種類で平面充填できる正多角形は、正三角形、正方形、正六角形の三つのみだ。この三種類の正多角形のなかで最も「円」に近い形態として六角形が選ばれているのだろう(下の図は、ウィキペディアの「平面充填」のページの一部をスクショしたもの)。

 

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%9D%A2%E5%85%85%E5%A1%AB

この小説を含む短編集『伝奇集』が発表されたのが1944年。ペンローズが、二種類のひし形によって非周期的な平面充填を可能にするいわゆるペンローズ・タイルを発見したのが1972年。このタイル貼りの展開には五回対称性と正五角形の構造(や黄金比)が含まれている。そして、シェヒトマンによって(二次元における正五角形と同じく)三次元で五回対称軸をもつ正十二面体や正二十面体の構造による準結晶状態の物質が発見されたのが1984年。もしボルヘスが、1984年以降に「バベルの図書館」を書いたのだとしたら、それでもなお《五角形は考えられない》と書いただろうか。むしろ、五角形こそがバベルの図書館にふさわしいと考えたのではないか。

(昨日の日記の最後に「追記」として置いた動画のリンクを再び置いておく。英語の動画だが、日本語字幕を自動生成できるようになっている。非周期的な平面充填、ペンローズ・タイルとそこに含まれる五回対称性と黄金比の構造、その同じ構造の3Dバージョンともいえる準結晶、などの関連性について分かりやすく解説されている。)

The Infinite Pattern That Never Repeats (繰り返すことのない無限のパターン)

https://www.youtube.com/watch?v=48sCx-wBs34