2021-07-31

●お知らせ。VECTIONによるエッセイをアップしました。「3レイヤーサイクル」の話は少し休みして、今後数回は、「苦痛」をトレースするブロックチェーンで組織を改善できないかという「苦痛トークン」というアイデアの概要についてです。

苦痛のトレーサビリティで組織を改善する 1: 「良いの定義」を決めずに良くすることは可能か

https://spotlight.soy/detail?article_id=vrhxcndiq

Can We be Good without a Definition of Good? / Implementing Pain Tracing Blockchain into Organizations (1)

https://vection.medium.com/can-we-be-good-without-a-definition-of-good-a1157cafbd72

ボルヘスの「円環の廃墟」の日本語訳が、手元に岩波文庫の『伝奇集』(鼓直・訳)とちくま文庫の『ボルヘスとわたし』(牛島信明)の二種類あるのだが、比べて読んでみるとかなり違うことにとまどってしまう。調子が異なるだけでなく、段落の分け方まで違っている。元のスペイン語がどうなっているのかは分からないが、日本語として読む、あるいは日本語で書かれた小説として読むと、牛島・訳の方がおもしろいと思った(鼓・訳は、過剰に簡潔にしようとしすぎているように感じられるし、日本語で読んでも、ここは解釈が違っているのではないかと疑問に思うところがある)。

書き出しの部分の引用。先に牛島・訳、次に鼓・訳。

《その静かな夜に彼が上陸するのを見た者はいないし、竹の小舟が清らかな泥に乗り上げるのを見た者もいない。しかし二、三日もすると、その寡黙な男が南部からやって来たこと、そして彼の故郷は川をさかのぼった、険しい山の斜面に点在する無数の村の一つであり、そこではまだパーラビ語(三-十世紀にペルシャで用いられたイラン語)がほとんどギリシャ語に汚されておらず、癩患者などまれであるということを知らぬ者はなくなった。事実を言えば、その白髪まじりの男は泥に唇を押しつけ、繁茂するみずがやに肌を切られながら、それを払いのけもせず、(おそらくそれを感じることさえなく)堤にはい上がり、血にまみれてふらふらになりながら、重い足を引きずって、かつては炎の色であったものが今では灰色に褪せている、石の虎だか馬だかに見守られた円形の空き地までやって来たのである。》

《闇夜に岸に上がった彼を見かけた者はなく、聖なる泥に沈んでいく竹のカヌーを見た者もいなかった。しかし、それから数日後には、この寡黙な男が南からやって来たこと、その郷里は上流の山の険しい中腹にあること、そこではゼンド語もまだギリシア語に汚されていないこと、レプラもまれであることを知らぬ者はいなかった。いずれにせよ、髪が灰色の男は泥に唇をふれ、皮膚を傷つけるチガヤを払いもせず---おそらく、何も感じなかったのだ---、土手を這いあがった。目まいに悩まされながら、血にまみれた体を引きずって、かつては炎の色をしていたが、いまでは灰の色をした虎か馬の石像が建っている、円形の境内にたどりついた。》

最初の二つの文で、「~を見た者もなく、~を見た者もなかった」、しかし「~を知らぬ者はなかった」という形で「否定」「否定」「しかし」でひねって「否定の否定」と、否定を連打していて、しかも、「見た者はいない」という言い方で、逆説的に誰にも見られていないはずの男のイメージを提示している。かなりひねった書き出しだと思う。誰にも見られていないという形でイメージが提示されることは、この小説が「夢を実在化する話」であることと密接に関係しているだろう(男が、夢のなかで作り出して現実へ押し出した人間=息子の、現実での姿を、男は伝聞で聞くのみで、見ることはない)。

この構造は、二人の訳者の訳で共通している。しかし、《竹の小舟が清らかな泥に乗り上げる》と《聖なる泥に沈んでいく竹のカヌー》とでは、ニュアンスの違いを越えて意味が違う。「小舟が乗り上げる」と「沈んでいくカヌー」とでは、「上がる」と「沈む」で意味が逆だし、物(小舟)が行為(乗り上げる)に着地するのと、行為(沈んでいく)が物(カヌー)に着地するという違いもある。「清らかな泥」は泥の状態を描写する言葉だが、「聖なる泥」は、ある泥を意味づける言葉だ。

三つめの文。牛島・訳では一つの文として訳されているところが、堤・訳では二つの文になっているが、これはおそらく、読みやすくするために二つに分けたのだろう。この三つめ(三つめと四つめ)の文は、意味や構造はそれほど違わないものの、表現力という意味で牛島・訳の方がおもしろいと感じる(読みにくくはあるが)。

●夢をみることで一人の人間を実在させようとする「男」は、まず、円形の階段教室にいる学生たちの夢を見て、その夢の学生たちの教育をはじめる。そして、大勢の学生のなかから見込みのありそうな一人を選ぶ。先に牛島・訳、次いで鼓・訳。

《ある午後(今では午後も睡眠にあてられ、明け方の一、二時間、醒めているだけであった)、彼はその巨大な夢の学校を永久に解散してしまい、ただ一人の学生だけを残した。これは時々反抗的になるが、物静かな、青白い顔の若者で、その鋭い面だちは夢見る彼の師に瓜二つだった。》

《ある日の午後---いまでは午後も夢にささげられていた。夜明けに二時間ほど眠るだけである---彼は大勢の学生たちをきっぱり見かぎって、ただ一人の学生を残した。それは口数が少なく、時には土気色に見えるほど顔色が悪く、自分を夢見ている者とそっくりな、鋭い目鼻立ちの少年だった。》

鼓・訳には牛島・訳の《時々反抗的になるが》に相当する部分がないのだが、これは、牛島・訳が「盛った」のか、鼓・訳が「端折った」のか。それはともかく、ここでみてみたいのは、鼓・訳に間違っていると思われるところが一カ所あるということ。牛島・訳では、《明け方の一、二時間、醒めているだけ》とされているところが、鼓・訳では《夜明けに二時間ほど眠るだけ》となっている。今では午後まで睡眠(夢見ること)にあてられているという前の言葉からすれば、多くの時間を眠ることに費やしているはずだから、《夜明けに二時間ほど眠るだけ》というのでは意味が通らなくなってしまう。昼間に寝ていて夜は起きているというなら意味が通るが、それだとたんに昼夜逆転しているだけで、夢見ることに力を注いでいることにならない。

このように意味が分からないところがいくつかある。牛島・訳では《砂で縄をあざなったり、風で貨幣を鋳造したりすることよりはるかに困難である、と》となっているところが、《それは、砂で縄をなったり、表のない貨幣を風で鋳造したりすることより、はるかに困難な仕事だった》となっているのだが、この「表のない貨幣」の意味がよく分からない、とか。

●こうして読み比べてみると、「バベルの図書館」も牛島・訳で読んで比べてみたいと思うのだが、『ボルヘスとわたし』に「バベルの図書館」は収録されていないのだった(『伝奇集』には鼓直・訳とは別に、篠田一士・訳があるのだが、篠田版は手元にない)。