2021-09-03

●お知らせ。VECTIONによる「苦痛トークン」についてのエッセイの第五回をアップしました。苦痛トークンは、《勇気を必要とせずに、嫌なものはイヤだと客観的に伝える》匿名化された仕組みであり、組織によってある生産物が生産される過程で、その組織のメンバーに生じた苦痛の総量を示す指標となります(同じクオリティの生産物であっても苦痛量の少ない方が優れた生産物と言えるし、たとえクオリティが高く安価であったとしても、苦痛量の多い生産物は優れた物とは言えなくなる)。

これだけでも、苦痛量の変化(推移)からパワハラなどの発生を察知するための徴候となり得るでしょう。しかしそれだけでなく、苦痛の正確なトレースを通じて「人の意思(政治)」を介すことのない自動化された組織構造の変化を実現する、というアイデアを含むものです(人にはできるだけ人事権という権力を与えたくないと考えます)。苦痛トークンは、ブロックチェーンという新たな技術によってはじめてその可能性について考えられるようになるものです。

(目標や理念、思想の良し悪しではなく、目標や理念や組織の維持のためにメンバーに強い苦痛を強いる組織やそのあり方を「悪」と考える。)

《パブリックなブロックチェーンを使っているので、トレース結果は外部から参照できる。排出ガスのようなイメージで、組織が活動によって産出した苦痛トークンの総量がわかることになる。これにより、ブラック企業などのガバナンスの不透明性を打ち消すよう試みる。なお、組織がトレース結果を公表しない場合、なぜ公表しないのか、という公衆からの疑問に対峙する必要がでてくるだろう。》

苦痛のトレーサビリティで組織を改善する5: 苦痛トークンによる組織の変化(DAO+苦痛トークン)

https://spotlight.soy/detail?article_id=os1aza2qi

Changing the Organization through Pain Tokens (DAO + Pain Tokens) / Implementing Pain Tracing Blockchain into Organizations (5)

https://vection.medium.com/changing-the-organization-through-pain-tokens-dao-pain-tokens-868ea7b5e748

●(昨日からつづく)ビオイ=カサーレス「パウリーナの思い出に」では、ある男(モンテーロ)の嫉妬からくる強い妄想が別の人物(主人公)にまで作用を及ぼす(『流れよ我が涙、と警官は言った』と同様に)。「わたし」の妄想が他者にまで作用し、主人公がモンテーロの妄想世界に引き込まれ、その妄想の一部分となる。だがそれは、主人公が、モンテーロを通して(モンテーロという鏡に映った)パウリーナを見ることではじめて、パウリーナの別の側面を見ることが出来て、自分が見ていたパウリーナが、自分という鏡に映ったパウリーナであったことを自覚する、ということでもある。

主人公は、《ぼくは自分がパウリーナの不鮮明で粗雑な写し》のようなものであり《パウリーナと似ていることで自分は救われている》と考える。自分の方がパウリーナのコピーであり鏡像であって、自身の内に投影されるパウリーナの像によって自分が高められるのだ、と。しかし、彼女を映し出す鏡(自分)は決して透明でフラットな存在ではなく、偏向があり、鏡にはあらかじめ歪みがある。あるいは、パウリーナ自身が、自らを映している鏡の偏向にあわせた像だけを鏡(主人公)に投げかけていた。というか、互いに互いを映しあう鏡像的な関係にある時、互いにどちらも自分の像を表している鏡(二人称的対象)の偏向や歪みを自覚できない。おそらくパウリーナ自身も、モンテーロという「別の鏡」に出会うことではじめて、自身の別の側面に気づいたのだろう。

主人公から見たモンテーロは、《はじめての訪問にもかかわらず、こちらが時間を割いてでも読むべき作品だと言わんばかりに、分厚い原稿とともに熱弁を振る》うなど押しが強く、一方で《自分の殻に閉じこもり、相手の気持ちを察することができない》ような人物とされる。また、パウリーナは《あの人、とても嫉妬深くてね》と言う。対して、その語りから主人公は冷静で穏やかな人物のようだ。パウリーナを失った失意のなかでも取り乱したりはせず、留学をすることでひとまずは「この地」を離れようという適切な判断ができる。

主人公が留学から戻ると、不意にパウリーナが部屋を訪れ、二人は結ばれる。しかしその時、主人公は彼女の様子に違和感を覚える。

《そんな高揚感の中でも、ぼくはパウリーナの言葉にモンテーロのくせがうつっていることを感じずにはいられなかった。モンテーロっぽい回りくどい言い方、正確に言おうとして、ただいじくりまわしたいだけの表現、思い出すのも恥ずかしくなるほどのひどい低俗さ。彼女が口を開くたびに恋敵の言葉を聞いているようだった。》

《パウリーナが鏡にうつっている。鏡には花飾りや王冠や黒い天使をあしらった縁どりがあり、ほの暗い水銀の鏡面を見つめていると、パウリーナの姿がいつもと違っている気がした。それまでとは異なる目で見たことで、彼女の知らなかった一面を発見したと思った。》

《「もう行くわ。遅くなるとフリオがうるさいし」

その声には軽蔑と不安がこめられていた。パウリーナの言葉とは思えず、とまどいをおぼえる。ぼくの知っているパウリーナは誰かを裏切る人間ではなかったので、暗い気持ちになる。》

この違和感は、この時のパウリーナが「モンテーロの妄想がつくりあげたパウリーナ」であり、パウリーナ本人(パウリーナの魂そのもの)ではなかったことによって、一応は説明がつく。しかし主人公は必ずしもそうだとは考えない。モンテーロの妄想の「鏡」に映されたものとはいえ、それは《彼女の知らなかった一面》でもあるのだ。主人公は、《ぼくがモンテーロを介して知りえたパウリーナの一面を、あの男は実際に見ていたことになる》と考える。別の鏡に映ったパウリーナが、知っていたのとは別の側面を語っている。

主人公はパウリーナとの再会を思い出しながら、《たとえパウリーナの態度にいつもと違う冷たさがあり違和感をおぼえたとしても、その顔はあいかわらず美し》く、《顔は魂にはない誠実さを持っているのか》と考える。しかしすぐその後に《ぼくは自分の好みをパウリーナに投影して、それを愛していただけで、実は本当のパウリーナを知らないのではないか》と懐疑的になる。このような懐疑は、モンテーロという存在(別の鏡)によってはじめて主人公にもたらされるものだろう。

モンテーロは、ネガティブな意味での典型的な「文学青年」であるかのように描かれている。そして、彼が書いているのは次のような小説だ。

《あるメロディはバイオリンと演奏者の動きが結びついて生まれる。同じように、物質と運動が決まった形で結びつけば、人間の魂が生まれるのではないか。小説の主人公は、魂を生み出す装置(木枠と紐を組みあわせたようなもの)を作っている。やがて主人公は死ぬ。遺体は通夜のあとで埋葬されるが、彼の魂は装置の中でひそかに生きつづける。作品の最後で、ひとりの若い女性の死が語られる。彼女の死んだ部屋には、ステレオスコープと方鉛鉱をとりつけた三脚とともに、その装置が置かれていた。》

鉱石ラジオに使われる方鉛鉱と、視差により幻の立体感を生み出すステレオスコープは、ただ保存されるだけで表現をもたない魂と交信するための装置なのだろう。モンテーロは、死者の魂を保存する装置についての小説を書いているのだが、その装置には魂が自らの存在を表現するための仕組みがない。魂は、ステレオスコープと方鉛鉱を用いて覗き込まなければ(覗き込もうとする女性が存在しなければ)、ただそれ自身として自足してあるだけで、自ら現れることはない。同様に、パウリーナの魂も、自らの力によって現れたのではなく、モンテーロの嫉妬という強く歪んだ妄執を媒介としなければ現れることがなかった。

逆に言えば、妄執こそが歪んだ形だとしても死者を蘇らせる。現実には、主人公とパウリーナは結ばれることはなかった。だからモンテーロの妄想は事実ではない。しかし嫉妬に駆られたモンテーロにとってその妄想は事実以上にリアルな「現実」としてあったし、ありつづけるだろう。その強い「妄想=現実」が、(パウリーナを犠牲するだけでは飽きたらず)主人公の現実をも巻き込んでしまう。だがここで主人公は、モンテーロの妄想に引き込まれながらも、その妄想にとらわれるのではなく、そこから知りたくもない「現実」を認識させられることになる。主人はどこまでも理知的に思索する人であり、《いつも別の視点を用意しておこうと頭を働かせるくせがあるので---昨夜パウリーナがあらわれたことについて、ほかの解釈はできないだろうかと考える》ことによって、《パウリーナは死の世界からもどってきてくれた》という幸福な誤解を思考が打ち砕いてしまう。まさに《モンテーロは自分の幻想とともに苦しんだが、ぼくは拷問のような現実を受け入れなければならない》のだ。主人公とモンテーロとは、どこまでも対比的であり対照的である。