2021-09-10

●9月30日までの限定公開のYouTube動画で、絵恋ちゃん(「ちゃん」まで含めて固有名)のライブ映像(はじめから終わりまで、まるまる)をはじめて観た。

【期間限定公開】絵恋ちゃんバースデーライブ2019『生まれてきたのが気まずい』

https://www.youtube.com/watch?v=8elDrjBfkCM&t=1023s

絵恋ちゃんは、ぼくが知る限りでアイドルのなかでもっともおもしろい人の一人だとずっと思っていた。ただどうしても、曲がいまひとつ好みではないとも思っていた。だが、ライブのパフォーマンスがとてもすばらしかったので、「曲の好みでなさ」が大きく後退した(あまり気にならなくなった)。

地下アイドルであることの良さを最大限に発揮したライブパフォーマンスで、それはつまり、観客の数や会場の規模が大きくなった場合にはこの「良さ」の多くが消えてしまうだろうということだ。だが逆からいえば、地下アイドルという規模でなくては経験できないもの(小さな規模だからこそ実現される貴重なもの)がここにはあるということだろう。

●昔からブルーハーツを素直には受け入れられない。今では、昔、嫌いだった時とは違って、そこにかけがえのない良さがあるということは(ある程度は)理解できていると思う。ただ、ぼくのなかではブルーハーツは素直には響かない。しかし、あきらかにブルーハーツのパロディである「就職しないとナイト」には大きく揺さぶられる。それには、アイドルという存在のもつ媒介性が大きくかかわっていると思う。

就職しないとナイト (絵恋ちゃん)

https://www.youtube.com/watch?v=-pctduU0XPE

この曲は、この曲で歌われているような人々の心の声を、アイドルが代弁して歌っているのではない。アイドルは、彼らを上から見下し、罵倒するような位置に立って歌っている。しかしここにあるのはガチな罵倒ではなく、罵倒や見下しは(親愛の情のようなものをこめて)「演じられた」ものだ。アイドルとオタク(仮に、この曲で歌われているような人たちとする)との間には、穏やかな、ヌルいとさえ言っていいような共犯関係があることが「信仰」されている。アイドルはオタクを傷つけないし、オタクもアイドルを傷つけない(と、信じ得る空気が存在しているという仮定が前提とされる)。その上で、アイドルはあくまでも「上」に存在し、下々のオタクを罵倒し、踏みつけるサディスティックな女王なる(とはいえ、アイドル自身がヴァルネラブルな存在であることも明らかだ)。

演じられた空間で、アイドルはオタクたちに共感しているのではなく、上から目線で「お前たちはドブネズミ以下だ」と「客観的な事実」を突きつける役回りにある。オタクたちは、アイドルが告げる残酷な真実を自虐的に受け入れる。それはたとえ「残酷な事実」だとしても、アイドルという女神から与えられた神託であり、そうである限りその事実を喜びとして受け入れることができる(残酷な現実を耐え得るものとする)。だからこれは、革命の歌でもプロテストの歌でもなく、現状肯定の歌であり、残酷な現実を受け入た上て、その場所で生きるための歌だ。

ただ、これらはすべて演じられているのだし、演じられていると「自覚」されたものである。アイドルは、パフォーマンスの質によってオタクを魅了しつつ、この祝祭がフィクションであり偽物であることを随所に匂わせる。アイドルのパフォーマンスそのものが、高度に偽物性を帯びたものだ。アイドルは女神ではなく、アイドルとオタクとの共犯関係の了解のなかで「女神の役を演じる」者だということがその両者に前提として了解されている(そのことはアイドルのアイドル性を少しも毀損しない、それは共犯関係であってメタアイドル的なアイドル批判ではない)。そんななかで「お前たちはドブネズミ以下だ」という宣言は、この偽物の祝祭の外からやってくる、現実的で社会的な評価であろう。その評価は、この「偽物の祝祭」が終わった後に、オタクやアイドルを待ち受けているものだ(アイドルもまた「地下アイドル」でしかない)。

この祝祭が偽物であり、(アイドルとオタクの間に確かにあると幻想されている)共犯関係によってその幻が実現しているに過ぎないのだとしても、それによって発生する「楽しさ」が十分に強いものであり、そこにあると幻想される共犯関係のありようが、現実の社会的な関係よりもリアルでずっと貴重なものだと信じられるのであれば、その外にある現実からやってくる「お前たちはドブネズミ以下だ」とする評価を「客観的事実」として受け入れながらも、そのように評価する「現実の(社会の)評価基準」そのものを信用ならない、とるに足らないものだと「評価」し返すことができる。評価は甘んじて受けるが、それはたかだか社会的な評価でしかない、と、思い返す力となる。

ライブ会場で発生する充実した「楽しさ」の質が、「現実の評価基準」を相対化し得るほどの強さをもった時、つかの間だけ虚実は反転する。それは現実を変えないが、「現実の評価基準」への追随や盲従を抑制するだろう。ドブネズミ以下だという評価を受け入れたとしても、それによって自分を責めたり、傷つけたりする必要はない、と。客観的事実の受け入れと、現実的な評価基準の相対化とが同時に起きる時、その間にあるわずかな隙間に、社会的客観性とは別の、非社会的で現実的な(虚構的な、ではない)生の場があることを知ることになる。

(これはあくまで、「非社会的な現実の生」であって、現在の社会では我々はドブネズミ以下とされるが、本来あるべき社会では優れた存在として処遇されるはずだ、という政治的幻想へ向かうものではない。)

自虐しつつも、自分を貶める社会的な基準をも同時に貶める。フロイト的なヒューモアに通じるこの感覚は、「就職しないとナイト」の《運に才能ありません》のところの「ありません」というシャウト(演じられた偽のシャウト)が見事に表現していると思う。偽物であるからこそ、こそにかけがえの無さが宿る。

ただこの時、ドブネズミ以下でしかない「わたしたち」が、(とても強力に作用する)社会的な基準を貶めることのできる根拠は、(普遍的な理念や超越的な信仰ではなく)いまここで発生している楽しさであり、その楽しさを支えている、小さくて壊れやすい共犯関係(の幻想)でしかないので、それはとても危ういものだ。そもそもドブネズミ以下であることを受け入れた以上、垂直的(超越的)は信仰は望めない。

とはいえ、というか、だからこそ、ドブネズミ以下である「わたしたち」がこの現世を生きるためにその「危ういもの」が必要であれば、その「小さなもの」の維持のための努力やメンテナンスはとても貴重でかけがえのない仕事だろうと思う。

(おそらく、この貴重なものは、ある程度以上大きくなると、社会的なものに巻き取られてアジール性を失い、壊れてしまう。その、非社会的な小さなものは、「社会の中」で実現され、維持されなければならない。小さいものを小さいままで---拡大もさせず、消滅もさせずに---維持するのはとても難しい。)