2021-09-15

●おそらく、『ふたりの真面目な女性』(ジェイン・ボウルズ)に原言及する人のほとんどが次の部分を引用するだろうが(だから出来ればこの部分の引用は避けたいのだがそうもいかない)、夫と共にパナマに着いたコパーフィールド夫人はホテルの部屋で次のように考える。

《「さて」と彼女はつぶやいた。「信仰を持っていた時代には、ひとはどこに移り住もうとも、神とともにあった。ひとびとは神を抱いてジャングルを抜け、北極圏を渡った。神は遍くひとびとを知ろしめし、ひとびとはすべて同胞だった。今では、どこに移り住もうと抱いていくものなど何もなくなってしまった。わたしに言わせれば、昔のひとはカンガルーのようなものだったのよ。でも、どうしてだか、ここには、わたしに何かを思い出させてくれるひとがいるような気がする......この奇妙な土地に安らぎの場所を見つけなければならないわ」》

《「思い出」と、彼女はつぶやいた。 「子供の頃からずっと、わたしは物事にまつわる思い出を愛してきたわ。でも、夫は思い出などなしに生きていける男なのよ」彼のことを思うと鋭い痛みを覚えた。彼女にとっては最愛の存在だった。 彼のほうは、未知のものに出会うたびに、それがたとえようもない喜びとなったが、彼女には、すでに古い夢のように馴染んでいるもの以外は、すべて途方もないものと映った。》

コパーフィールド夫人にとって、信仰の不在(という、いまここにある「恐怖」)を埋めてくれるものが《思い出》であるのだろう。底の抜けた世界では、わざわざ未知のものを求めなくても、あらゆるものごとがあまりにも未知であり底が知れない恐怖となりえる。そんな世界に「底(基底)」を与えてくれるのが《すでに古い夢のように馴染んでいるもの》なのだろう。だが彼女は、未知の土地であるパナマ(コロン)で、「思い出」とは異なる形で「底を与えてくれるもの」に出会う。

●次の引用は、コパーフィールド夫妻が、はじめて二人でコロンの街を散策していて、コパーフィールド夫人が、なにかしらのサービスをするらしい黒人女性のサービスを、夫と別れて受けようとする場面。彼女がはじめて「コロンの女たち」の一人に触れる場面で、なにもはじまらないうちにあっけなく途切れるのだが、それも含めて、とても印象深くて魅力的な場面。

《ふたりはさらに歩いて別な通りへと入った。太陽が沈みかけていたが、大気はそよとも動かず熱気が和らぐことはない。通りにはバルコニーもない平屋の小さな家ばかりが軒を連ねていた。どの戸口の前にも必ずひとりは女が坐っていた。 コパーフィールド夫人は一つの家の窓に近づいて中を覗き込んだ。 大きなダブルベッドが部屋をすっかり占領していた。ひどく凹凸になったマットレスの上にレースの上掛けが広げられている。ラヴェンダー色の紗のランプシェードの下から電球がベッドの上にけばけばしい光を投げかけ、〈パナマ・シティ〉と形押しのついた扇が枕の上に広げたまま置いてあった。

家の前に坐っていた女はすでに盛りはすぎていた。椅子に腰を掛け、膝の上に肘をついている。 コパーフィールド夫人の方に向けた顔を見ると、西インド諸島の出身らしい。平らな胸、ごつごつした体つき、肩と腕は筋肉質だった。面長の不機嫌な顔にも首の一部にも明るい色の白粉が丹念に塗られていたが、胸と両腕からは浅黒い肌が覗いていた。 舞台衣裳のようなラヴェンダー色の紗のドレスがコパーフィールド夫人の目を楽しませた。女の髪には灰色の筋が目立っていた。

コパーフィールド夫妻の視線に気づくと、その黒人女はこちらを向いて立ち上がり、ドレスの皺を伸ばした。 立ち上がると女は巨人のように大きく見えた。

「ねえ、ふたりで一ドルにしとくわ、どう、寄っていかない?」 女が声をかけた。

「一ドル」 と夫人は 鸚返しに言った。》

《夫の姿を見送ると、コパーフィールド夫人は言った。

「束縛されないのって、いいわね。あなたのお部屋に行きましょう。 窓から中が見えたけど、素敵だった……」

まだ言い終わらないうちに、女は彼女を両手で中に押しやった。床には敷物もなく、壁はむきだしのままだった。飾りになるものといえば、先ほど窓から見えたラヴェンダー色のランプシェードだけだった。ふたりはベッドに腰をおろした。

「あっちの隅に小さい蓄音器があったんだけどねぇ」 女は言った。 「船に乗ってたひとが貸してくれたの。でも、そのひとの友達が来て持ってったわ」

「ティ、タタ、ティ、タタ」と女は口ずさみながらしばらく床を題で打ち鳴らしていたが、コパーフィールド夫人の両手を取って彼女をベッドから立ち上がらせた。

「さあ、ハニー」彼女は夫人を抱きしめた。「あんたって、すごく華奢で可愛いひとね。 こんなにきれいなのに、きっと淋しいんだわ」 コパーフィールド夫人は女の胸に顔を埋めた。 舞台衣裳のような秒のドレスの匂いが、学生時代に初めて演じたお芝居の役を思い出させた。微笑んで黒人女を見上げると、女はこのうえなく優しい表情を浮かべていた。

「午後はいつも何をするの?」 彼女は尋ねた。

「トランプしたり、映画に行ったりね.....」

コパーフィールド夫人は彼女から身を離して、二、三歩後ずさりした。頬が燃えるように赤くなっていた。ふたりは外を行くひとの気配に耳をすませた。窓の外でひとびとが何を話しているかまで聞きとれるようだった。黒人女は眉をひそめ、深い物思いに沈んでいるようだった。

「時は金なりなのよ、ハニー」 彼女は夫人に言った。 「あんたは若いから、まだわかんないだろうけど」

コパーフィールド夫人は頭を振った。 急に悲しくなって、黒人女を見つめた。「喉が渇いたわ」と、夫人は言った。その時、突然男の声が聞こえてきた。

「こんなに早く戻ってくるとは思わなかっただろう、ええ、ポディ?」すると女たちの笑い声がけたたましく響いた。黒人女の目が生き生きと輝きだした。

「一ドルちょうだい。早く、一ドルよ!」 彼女は興奮して金切り声で叫んだ。「あんたの時間はもう終わりよ!」コパーフィールド夫人が急いて一ドルを渡すと、黒人女は通りに飛び出していった。夫人は彼女の後を追った。》

(ここでコロンの黒人女性は、「アメリカ人」から金をせしめるためにサービスしているのだし、コパーフィールド夫人が魅了されているものにはあきらかにオリエンタリズムが含まれているのだが、とはいえ、それが「男」の予期せぬ帰還によって中断されるなど、オリエンタリズムに還元されない要素もあり、さらに、オリエンタリズム的なものの誘惑によってであっても、夫から離れられ、夫とは別の官能的な関係性への可能性が開かれ、それが「夫の傍ら」とは別の居場所を求める探求への道を開いたことが重要だ、とは言えるのではないか。その可能性が、相手側の「男」の帰還---男女カップルの強さ---によって中断するというのは皮肉なことだが。)

(この後、コパーフィールド夫人が出会うパシィフィカは、金づるである男と付き合っているだけでなく、その他にメイヤーという船乗りの「思い人」がいる。コパーフィールド夫人が求めるのは、男性との間に強い愛情関係を持っている、あるいは持ち得る女性との関係、と言えるのかもしれない。金づるである兵士との関係だけしか持たないペギーに、彼女は好感をもたない。)