●昨日観ていた映画『水を抱く女』(クリスティアン・ペツォールト)は神話を題材とするものだが、ベルリンという都市についての映画でもあった。それを観ながら、東京という都市との違いを強く感じていた。
たとえば塚本由晴は、東京という都市は、大都市でありながら、住宅のような「小さな粒」によって出来ていて、(日本の住宅の平均寿命は26年だが個別の住宅の寿命には幅があるので)建てられた年代の異なる(異なる時代背景をもつ)住宅が時間の層をつくりつつ、複数のリズムをもってゆるやかに新陳代謝していくことで、意図せざるメタボリズムが実現しているのではないか、と言っている。以下、2010年のヴェネチアヴィエンナーレの冊子である「トウキョウ・メタボライジング」より、北山恒によるインタビューでの発言と、塚本由晴によって書かれたテキスト「非寛容のスパイラルから抜け出すために」からの引用。
インタビュー
《(…)住宅のような小さな粒を主成分に東京のような大都市ができていること自体、驚くべきことだと思うんですよ。土地が180万(個人170万、法人10万)の地権者に分有されていて、中国のように政治的に一気に変わることはありえないので都市計画はやりにくいけど、それぞれの土地はそれぞれの人が管理し、家を建て、庭をつくりそのメンテナンスもやっている。街を歩いてみると意外に緑が多いけれど、その緑に税金が使われることはない。そう考えてみると意外にサステイナブルでしぶとい構造があって、部分ではフレキシブルに対応できる。》
《60年代のメタボリズムがめざしたのは、ライフラインとしてのコアと、個人空間としてのカプセルがあって、カプセルが何年か周期で更新していけば、持続性や拡張性のある都市がつくれるということでした。でも、2000年代の自分たちが今実際にやっていることは、隙間をあけた粒子化した都市のテクスチュアの一粒一粒を更新しているわけで、これはこれで都市の新陳代謝をしているという意味では、別な形のメタボリズムであろう。60年代のコアとカプセルに対して、隙間(ヴォイド)のまわりの粒(=建築)による「ヴォイド・メタボリズム」なのです。》
《(…)日本の住宅の平均寿命が26年ということ。都市の新陳代謝のサイクルが、26年という人間の寿命よりも短く設定されているがゆえに、ヨーロッパの都市に比べて短いサイクルで起こることまで都市現象として抽出されやすい土壌がある。1920年代に最初の郊外が誕生していますから、今我々がやっているのは第4世代になる。それは 第3世代までの反省に基づいて組み立てられるべきだと思います。イギリスだと住宅の寿命が100年。東京でいえば土木的なインフラストラクチャーのサイクル。そうすると、人間の一生のうちに建築もインフラも変わらない。要するに都市は変わらない。それに対して、ファッション的な商業施設はもともと短いサイクルで変わる。つまり、変わるものと変わらないものの二極で見られると思います。一方、東京というのは、インフラと商業の間に、26年周期の住宅がはさまってしまったために、5年とか1年とかで変化する商況的な活動までが都市の一部のような、空間の質を決めるものとされている。》
テキスト
《東京は戸建て住宅でできた都市と言えるほど、びっしりとその地表を住宅で埋め尽くされている。その住宅は、1920年以降の郊外の住宅開発にあわせて生まれた、いわゆる近代家族に対応した戸建て住宅の系譜にあり、2010年の今年はその90年目にあたる。そういう日本の戸建て住宅の平均寿命は26年である。単純計算しても過去に2回の建て替えがあってもおかしくはない。この90年間の日本社会は激しく変化した。建築技術、材料、法規、経済、家族など、住宅の背景になるものが、約90年でどれだけ変わったことか。もちろん住宅の寿命は個体差があるから、実際には第1世代から第3世代までの住宅がランダムに入り交じって建っている。多世代の住宅が混在する風景は、言い換えればこうした社会背景の違いを同時に見せられているようなものである。》