2022/02/21

●昨日観た『感じるつちんこ ヤリ放題! 』(2017年)がすごかったのだが、監督がいまおかしんじで、脚本が守屋文雄というコンビは、もしかすると『おじさん天国』(2005年)以来なのかと思って調べたら、あいだに『UNDERWATER LOVEおんなの河童』(2011年)があった(共同脚本)。この映画はいまひとつ面白くないんだよなあと思いつつ、この機会に改めて観てみようと思った。

改めて観たら面白がれるかもと期待して、アマゾンビデオで観たのだが、やはり面白くなかった…。え、河童が海から出てくるのか、と思ったら霞ヶ浦だった。アスカという女性のあだ名が「チャゲ」だった。面白かったのはそれくらいか。あと、死神を演じる守屋文雄がよかった。

ぼくには、ここでは(『感じるつちんこ ヤリ放題! 』では成り立っていた)いまおかしんじ的なファンタジー世界が成立していないように見えてしまう。それと、『かえるのうた』の良かった部分が全部裏返って悪い方に出てしまったという感じ。

(いまおかしんじクリストファー・ドイルは噛み合わないし、オシャレサブカルの方にもっていこうとしても無理がある、ということなのだろうが、でも、それだけなのだろうか。観ているあいだずっと退屈だったのだけど、他のいまおか作品と何故こんなに感じ方が違ってしまうのだろうか。)

(おそらく、退屈の原因の大きい部分として、クリストファー・ドイルが、いまおかしんじ作品における「俳優の演技」や「俳優の存在」をどう撮ったらよいのか分かっていないというところにあるのではないかと思う。確かに、水辺の場面とか森の中とかは美しい撮影だと思うが、そこが美しいことはいまおか作品にとってそんなに重要ではない。言い方は悪いが、決して美しいわけではない俳優たちをどう撮るかの方が重要だろう。演技のあり方も、芸能人みたいな、テレビドラマみたいな演技とは違っている。おそらく、日本語のニュアンスがよく分からないとか、彼自身のスタイルとの齟齬とかもあって、そこを摑みきれなかったのだろうと思う。)

(いまおか的なファンタジー世界は、河童の口の向こうに人間の口が見えてしまっている状態---キュウリを食べているのが河童の口ではなく人間の口であることが見えてしまっている---を、それでもそれを「河童とみなす」ことによって成り立っている。それは、B級映画のチープさを愛でるような眼差しとは異なる。B級映画のチープさを愛でる眼差しは、現実のレベル(予算がないこと、充分に技術や手間暇をかけられないこと、それによって生まれるほころび)を面白がるメタ的な視線だが、いまおか作品では、現実らしさ、もっともらしさとは無関係に「フィクションの次元がたちあがる」ということが重要なのだと思う。その意味で多分に演劇的なのだと思うが、その演劇的フィクションが、演劇的な手法や技術---演劇的な演技---とはまったく別のやり方で立ち上がっている。生身のその人そのもの存在感が、そのままフィクションの次元へと転移していく感じ。この作品では、それが成立していないように思う。)