2022/03/12

●『竜とそばかすの姫』(細田守)をU-NEXTで観た。うーん。120分では短過ぎるし、120分では長すぎる、という感じ。

自分のスタジオをもって、そこで数年かけて(ジブリ級のメジャー作品が期待される)一本の長編をつくり、それでスタジオを維持していくというシステムの息苦しさというものを、どうしても感じてしまう。もし細田守が、大きなスタジオの一員として仕事をしていたなら、もっと幅のある様々な仕事が出来たのかもしれないのに、「自分の作品を作るためのスタジオ」をもつことで、逆に自由が(あるいは可能性が)強く制限されているのではないか、などということを勝手に感じたりしてしまう。アマゾンでもNetflixでもいいので、スタジオ地図に、たとえば30分×10回くらいのシリーズを依頼したりしないだろうか、とか思ってしまう。

とはいえ、(正直、あまり上手くいっているとは思えない)この作品を、ぼくはかなり好きだ。

●観ている途中は、言い方は悪いが、作家性はひとまず置いておき、エンタメ路線に完全に舵を切ったのだな、と思っていた。その代わりに、エンタメとしてのクオリティをマックスにまで押し上げる、そっちの方向に腹を決めて集中した、そういう作品なのだな、と。

また、現実のパートの演出がとてもすばらしく、対して、仮想世界のパートは、映像のマニエリスムとしてはすごいが、話があまりにも単純過ぎて(手塚キャラみたいなダサいフォルムの正義の集団とか、これはないなあと思った)、これは現実世界だけの話で充分成立するのではないかとも思った(仮想世界と田舎の風景を対比的に置きたがるのは、『デジモンアドベンチャー』や『サマーウォーズ』からつづくことだ)。細田作品としては珍しく(という言い方は失礼だが)登場人物が皆魅力的だし、細田演出で京アニみたいなストーリーを映画にしてくれないかな、ぜひやってほしいな、とか思いながら観てもいた。

(竜とは言っても実際にはオオカミの怪物で、イヌとかオオカミとか、そういうイヌ系のキャラの造形はいつもすばらしいと思う。)

しかし、終盤になって唐突に、まるでオチのためのネタのようにして「子供の虐待」の問題が持ち込まれる。そこで、いや、(エンタメ要素の強い)この作品にそれはなくてもいいのでは? 、と、まずは感じざるを得ない。

主人公が幼い頃に母は、見ず知らずの子供を救うために、主人公を置き去りにして助けに行き、そのまま亡くなってしまう。母に(永遠に)置き去りにされた主人公は、母の行動を納得できず、置き去りにされたという傷が強く刻まれ、後々まで尾を引く。そして成長した主人公は、今度は自分が、見ず知らずの子供を助けるために自分を犠牲にして危険を顧みずに行動する。その行動により母を理解し、「置き去りにされた過去の自分」も救われる。この過程(展開)が必要なのは分かる。ただ、その子供が「救われるべき理由」が虐待であることの必然性が見えないので、まるで主人公が成長するための糧に虐待が使われたみたいな見え方になってしまう。

おそらく意図としては、匿名的なSNSの世界にはびこる「強すぎる悪意」の向こう側に、自分ではどうすることも出来ない「(癒やしがたい)原初的な傷」のようなものの存在を細田守は見ていて、それが「絶対的な受動状況に置かれている子供たち」という形象として表現されているではないかと思われる。

デジモンアドベンチャー』が、あまりにも楽天的に子供たちの善意と可能性とを肯定していることに対して、その裏にあるものや「子供の弱さ」をちゃんと描き出し、かつ、それを救う必要があると考えているのではないか。子供が置かれている負の側面もちゃんと見なければならない、と。竜という存在は、まさにそのような問題意識が形象化したもので、そもそも、この作品の最初のモチーフはそこにあるのかもしれない。

かつて救われるべき子供だった主人公(姫)が、今まさに救われるべき子供(竜)を救う。それは、仮想空間の媒介によってエンハンスされたポジティブな能力が、同じくエンハンスされたネガティブな能力と出会い、そこで、子供と子供が救い合うことであり、救った(やや年上の)子供も、他人を救うことで自らも救われる。仮想空間を、そのような「弱さ」との出会いと救い合いの可能性をもつ空間として描き出したかったのではないか。

(いや、仮想空間内では解決せず、実際に東京まで会いに行くのだが。主人公が虐待オヤジと対峙する場所が「坂道」であるという演出にしびれる。)

しかし、物語にエンタメ的な加工を重ねていくうちに、最初にあったはずのモチーフが後退して目立たなくなり、付け足しのように見えてしまうという逆転が起きてしまったのではないだろうか。姫の側の傷がある程度ちゃんと描かれているのに対して、(仮想空間にしか現われない)竜の側にある傷の描き方が抽象的なので、唐突に「虐待」が出てくるようにみえてしまう(おそらく、これこそが重要な主題だったはずだと推測されるのに…)。

(仮想世界で正義を名乗る者と、現実世界で虐待するオヤジとが「握りこぶし」によって響き合う、とかいうのは単純すぎないだろうか、と思った。)

どちらも傷ついた子供である「姫」と「竜」の相互的な救い合いというモチーフを強く出すと、どうしても暗い話になってしまい、メジャーであることが期待される「数年に一本の長編」で、あまり暗さを前面に出すようなリスクはとれないので、仮想世界の過剰なきらびやかさと「歌」の強さで暗さに覆いをかけようとするが、しかし最初のモチーフにあった暗さは完全には消えないので(というか、それは消したらいけないものなので)、あたかもそれが唐突に出現したように見えてしまう、ということではないだろうか(という推測)。

細田守的な細かい演出のキレ、エンタメとしての派手なきらびやかさ、そして、ある程度以上に複雑でシリアスなモチーフや物語を提示しようとすること、この三つを充分に共立させようとするなら、120分では足りないように思う。この映画の現実部分の演出は本当にすばらしいと思うので、120分でやるなら、山田尚子ばりに演出のキレだけで勝負するようなケレン抜きのやつを一度やってみてくれないかなあ、と思ったのだった。

(女子高生である主人公が、虐待オヤジと対峙するために一人で東京まで出かけていくというのは、現実的にはありえないことだ。現実において、それは大人がすべき仕事だ。しかしこれは現実ではなくフィクションで、神話の世界で若者が試練の旅に出かけるのと同じことなのだから、ここは、主人公はあくまで「一人」で出かけるのでなければならない。現実の社会問題のレベルと混同してはならないと思う。この物語のリアリティにおいては、子供が、子供によって救われるのでなければならない。大人は存在するが、大人は子供を---見守るだけで---ほとんど助けない。これは、現実らしさの問題ではなく、虚構の次元のリアリティの問題だろう。)

(「姫」も「竜」も、どちらもユニットであるという点も重要だろう。「姫」は、実質的には主人公と同級生のメガネの女の子とのユニットだし、「竜」もまた実質的には支え合う兄弟のユニットだ。「互いに支え合う二人組のユニット」が二つあって、それが互いを救い合う。)